キューバほど不思議な国はない。
ある人は、映画『ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ』で描かれたように音楽の楽園として思い描くだろう。
ある人は誇りある国家の姿をそこに見る。
キューバは、傲慢な大国、アメリカ合衆国に隣接しながら、反旗を翻し続けてきた。ベネズエラのウーゴ・チャベス大統領をはじめとしたラテンアメリカで台頭している左派政権は、競ってカストロの系譜に連なろうとしている。
一方、多くの人間が、命をかけてアメリカ合衆国に海峡を泳いで亡命してきた。アメリカ合衆国は、キューバでは人権侵害が横行していると弾劾する。
62年のキューバ危機をはじめとして、この国を巡って様々な事件が起きている。ただ、ニュースはそこに生活している人間の素顔を映し出すことは少ない。キューバで出会った市井の人々の言葉こそ、キューバを理解する手引きとなるだろう。
2001年の夏に僕は三週間キューバに滞在した。あれから五年。9.11など世界が揺れ動く中、キューバはどう変わったのだろう――。
2006年の秋、僕は絵描きの下田昌克、カメラマンの太田真三氏と三人でキューバを訪れることにした。
曰く、キューバは理想の国である−−。
キューバ第二の都市サンチャゴ・デ・クーバのタクシー運転手、六十九才のロランド・サラス。
「“革命勝利”の前、キューバ人はまずかった。数少ない金持ちが富を独占していた。私は革命前から地下で反政府活動をしていた。フィデル・カストロにもチェ・ゲバラにも会ったことがある。革命でキューバは良くなった。貧しい農夫だった私は、革命のおかげで学校に行くことができた」
サンチャゴ・デ・クーバでは、音楽の祭典が行われていた。日が暮れると道は封鎖され、人々はラムを飲んで、サルサを踊った。多くのキューバ人女性は少々太り気味だ。しかし、踊りを踊っている時、緩めの身体はまるでゴム毬のように生き生きとしてくる。
“ソン14”というバンドを組んでいるトランペットのラモン。四十三才。
「キューバのミュージシャンの質は高い。国の教育がしっかりしているからね。僕たちは国外でも演奏している。思い出しただけでもフランス、スペイン、オランダ…。一番いいギャラをもらった時は一回の公演で八百ポンド。最低は…キューバ国内だね」
キューバは統制の国である−−。
キューバの識字率はほぼ百パーセントである。ただし、本屋の数は少ない。首都ハバナの広場には露天の本屋がある。売っているのは色あせた革命の本ばかり。
露天商のマニュエル、四十三才。
「国中から古本をかき集めてきて売っている。チェ・ゲバラなど同じ本ばっかりだって? 確かにこの国の本の種類は少ない。フィデルの好む本しかない」
道路を車で走っていると、時折、物売りが立っている。
道ばたでチーズを売っていたヒルバルドとファン・カルロス。
「普段は農場で働いている。こうして作ったチーズを道ばたで売って現金を稼いでいるんだ」
そう話していると二人は突然チーズを小脇に抱えると、牧場の中に走り出した。鉄条柵を跳び越えると、草むらの中に姿を消した。その後、警官の乗ったジープが姿を現した。この国では、自由に商売することは認められていない。
キューバは産業なき国である−−。
キューバの現在の主要産業は観光である。カナダ、欧州から団体客が、太陽と海を求めてやってくる。そうした観光客につきまとう人間をヒネテロと呼ぶ。
トリニダーという観光地の多い街で籠と帽子を売っていたフランシスコ、八十二才。
「年金だけじゃ食べていけないんだ。写真を撮るのか? じゃあ金をくれ。絵を描く? じゃあ金をくれ。いくらくれるんだ?」
ハバナの旧市街は、スペイン統治時代、何百年も前の街並みが残っている。人々はその家を直しながら住んでいる。
日曜日の午後、旧市街でぼんやりと友達と道ばたで座っていた看護師のダニエル、二十一才。
「俺たちは金がない。金がないのでこうして座っているんだ。十年後も恐らく同じようにここでぼんやりとしているだろうよ」
キューバは最低の国である−−。
ハバナ近郊に住む溶接工のオマル。
「カストロが愛されているなんて嘘だ。演説にはいつも人を動員しているのさ。どこか他の国に逃げたい。この国では働いても稼ぎが少ないんだ。アメリカでもカナダでもいい、キューバ以外の国ならばどこでもいい」
そして、キューバは矜恃の国である−−。
サンチャゴ・デ・クーバで会った17才の高校生、ベアトリス。
「キューバのことが大好き。この国の教育はすべて無料。アフリカや他の中南米の国から留学生を受け入れて、無料で教育を施していることを誇りに思うわ。私の将来の夢は、医者。チェ・ゲバラのようになりたいの」
僕にとって、キューバは異国でありながら懐かしさを感じる国である。
ラテンアメリカでは特筆すべきことだが、キューバの治安は良い。夜間外出しても危ない気配は全くない。そして、人々は親切である。かつての日本がそうだったように、出し放しの洗濯物を隣人が取り入れてくれるような空気が流れている。この国の舵を取る、フィデル・カストロ国家最高指導者は齢八十を超え、もはや先は長くない。彼の死後、キューバはどのように変化するのか、まだはっきりと分からない。
確実なのは、欧米の投資家はカストロの死を心待ちにしていることだ。この国の教育レベルは高い。アメリカに近いという絶好のロケーション。自然に恵まれたこの国は投資対象として有望である。そうした資金が流れた時、僕が心地よいと感じた空気は消えてなくなるだろう。
この国は今、楽園の終わりを迎えようとしている。そのはかなさがまたこの国を一層魅力的にしているのかもしれない。
田崎健太 / 『週刊ポスト』 (小学館) 06年12月08日号より、原稿一部改変 |