『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』 表紙 楽天が巨人に勝つ日 ─スポーツビジネス下克上─

田崎健太 / 新潮文庫 500円

この本は2006年に出した『W杯ビジネス30年戦争』を文庫化したものである。
通常、文庫とはハードカバーの単行本を、同じ内容で、安価で小型にしたもの、と考えていい。
ただ、この本は違う。
『W杯ビジネス30年戦争』の取材は、1995年にブラジルのリオ・デ・ジャネイロでFIFA(国際サッカー連盟)会長だったジョアン・アベランジェへインタビューしたことから始まった。
世界のサッカーを仕切る怪物を目の前にして、ぼくは圧倒された。
結局、彼の言いたいことを記事 にまとめただけになった。
そして、一筋縄ではいかない世界に対して興味を持った。
ところが、当時は国際スポーツ政治に関する記事を日本で集めることは難しかった。国外の文献に あたり、自分なりに分析するしかなかった。
このときは、W杯に関するビジネスが加速している時期だった。
週刊誌の編集部に籍を置いていたぼくは、2002年W杯開催招致合戦を取材するため、スイス、イタ リア、ドイツへ出かけた。ちなみにこの時、FIFAを案内してくれた、腰が軽くて、愛想のいい男が、ゼップ・ブラッター 現在のFIFA会長である。
取材するうちに、電通のタカハシという名前をしばしば耳にするようになった。
世界のスポーツ界では高橋氏は著名だったが、日本ではほとんど知られていなかった。
日本のメディアはしばしば些末なことに大きな労力を割き、事の本質を見失うという特性がある (少し前になるが、酒井法子や押尾学の事件に報道陣が大挙する意味がわからない。今だって、ハイチの地震はどうなっているのか。もっと大切なことがあるはずだ)。
また、電通という企業が、日本で特別な力を持っていたことで、メディア側が報道を自己規制した 面もあったろう。
ぼくは、出版社を退社したあと、電通に取材して、W杯のビジネスについて書くことを決めた。
数度にわたり高橋氏に話を聞き、欧州サッカー連盟会長だったレナート・ヨハンセンに会うために 、スウェーデンへも飛んだ。
スイスでは、ヨハンセンの参謀を務めたクラウス・ヘンペルとユルゲン・レンツに話を聞いた。
東京では電通の高橋氏の部下たちに会った。
そして、ブラジルで再びアベランジェに話を聞いた。今度は、ぼくは聞くべきことを慎重に準備した。アベランジェは巧みに話をはぐらかしたが、ぼくは何度も質問を続け、最後には彼を怒らせたほどだった。
十年間のあいだに、ぼくも成長していた。
2006年W杯開幕の近づく足音を聞きながら、新潮社の隣にある旅館に缶詰になって『W杯ビジネス 30年戦争』という本にまとめたのだ。
いつも単行本の原稿を編集者に渡すときは、後ろ髪を引かれるような気分になる。
もっと手を入れれば、良くなるのではないか、あそこはあれで良かったのか、もっと時間が欲しい この本は特にその思いが強かった。
単行本が出たあとも、ぼくはブラジル出張の暇を見つけて、過去の新聞を漁り、資料を集めた。
ひょんなことから、ずっと取材をしたいと思っていたエリアス・ザクーに会うことができた。レバ ノン人のザクーは、ブラジルのジャーナリストでも今となっては知る人は少ないが、アベランジェの懐刀であり、サッカー界の黒幕である。スポーツ界を闊歩する最初の「代理人」と言ってもいいだろう。
こうした取材を加えて、文庫はできあがった。
見た目は小振りになったが、ぼくの中ではこの本の重みが増している。
是非、読んで欲しいと思う。


『楽天が巨人に勝つ日』表紙 楽天が巨人に勝つ日 ─スポーツビジネス下克上─

田崎健太 / 学研新書 740円 (税別)

本書の後書きにも書いたが、この本を書くきっかけとなったのは、早稲田大学での講義を終えた後 の雑談の中からだった。
07年の前期、僕は早稲田大学でスポーツジャーナリズムについて話すことになった。僕を誘ってく れたのは、10年以上の付き合いになる、早稲田大学の平田竹男教授だった。僕は上段から学生を教えることはできないが、スポーツの現場に関わる自分の経験を話すことはできると引き受けることに した。
この年から始まったスポーツジャーナリズムの講座は、一般教養の授業の中でも人気が高かった。 参加する学生は熱心で、最後まで受講人数は減らなかったという。そんな彼らの前で少々緊張しながら話をした後、平田さんとお茶を飲んだ。
その時、何かのきっかけで、楽天ゴールデンイーグルスの話となった。
平田さんは楽天イーグルスが、プロ野球界の一つの成功モデルになるかもしれないと言った。
僕は、楽天イーグルスが初年度から黒字を出したことは朧気に知っていたが、それは選手の年俸を 削っただけだろうと思っていた。成績を見れば、二年続けて最下位。いくら短期的に球団が黒字を出 しても、それを成功とはいえない。
これまで、野球を取材をすることはあったが、プロ野球の球団とは少し距離があった。ただ、平田 さんの言葉にひっかかりを感じ、自分で調べてみることにした。

僕が子供の頃、夢中になったのはサッカーだった。当時日本にはプロリーグはなく、少年団に入っ てボールを蹴り、専門誌を回し読みして欧州のトップリーグを夢想した。もちろん、真剣にやってい たのはサッカーだったが、近所の年上の友人たちとはしばしば野球に興じていた。テレビ放映のないサッカーよりも、見る方に関しては野球が好きだった。その後、僕は音楽に熱中し、スポーツの世界とは一度縁遠くなった。
スポーツの世界に引き戻されたのが、出版社に入社し、男性総合週刊誌で働き始めた時のことだ。
Jリーグが開始するということで、担当が必要になった。「ルールを知っている」という理由で、 僕はサッカー担当を任されることになった。もちろんサッカー専属という訳ではなく、事件や芸能などを追いながら、サッカーの取材をするようになった。
当時のサッカー(及びスポーツジャーナリズム)の世界は、みなが手探りだった。週刊誌の世界では先達がいなかったこともあり、好きな企画が立てられた。地域密着のクラブチームという発想は日本社会にとって新鮮で、スポーツ界全体が変わっていくのを目の当たりにした。
しばしばサッカーの他に、野球の記事を担当することもあった。根本陸夫さんや仰木彬さんなど素 敵な人間に取材できたのはいい思い出だが、人気球団についてはあまりいい思い出がない。僕たちの 週刊誌は、取材をして喜ばれる類のメディアではなかった(卑下するつもりはなく、むしろ相手の喜ぶ記事ばかり作っているわけではないという誇りであった)。サッカー界と比べると、野球界は閉鎖的で“内向き”だった(もちろんJリーグにも広報体制に問題のあるクラブもあったが)。かつてあれほど野球を見るのが好きだったのに、と興ざめした思いがある。

僕は、1999年末で働いていた出版社を辞めた時、ノンフィクションを書き始めた。スポーツは一つ の分野として、仕事が来れば書けばいいと考えていた。
ところが、僕はスポーツに強く引き寄せられた。
Jリーグが成功し、スポーツが産業として成立、その後中田英寿のように国外に出て行く選手が出 てきていた。
スポーツ、特にサッカーは他の分野と比べて変化のダイナミズムが大きかった。そして、僕は「W 杯30年戦争」や「此処ではない何処かへ」など、サッカーについて、何冊かの本を上梓することにな った。
ところが、ここ数年、サッカーの世界は、成長が完全に収束し、逆に硬直化しつつあり、書き手と しての面白みが減っているように思っていた。
そんな中、プロ野球、特にパシフィック・リーグを調べてみると、楽天イーグルスはかつてのプロ 野球界のやり方を完全に否定していた。年間赤字四十億円程度が珍しくなかった中、楽天イーグルス は様々な工夫を凝らし経営努力をしていた。二年目からは赤字に転落したが、それはきちんとした未来ある“赤字”のようだった。
取材を進めていくと、そこで奮闘している人間たちが、若く、何より楽しんで仕事をしており、眩しい程だった。僕は、彼らの姿を描いてみたくなったのだ。
そして、もう一つ−−。
ここ数年、僕はハンドボールという競技を追いかけていた。先日の北京五輪予選のやり直しで注目 されたが、それまでは国際試合の取材に出かけても、報道陣は、僕と専門誌一人ということがあったほど、典型的なマイナー競技だった。
それでも、ハンドボールの選手たちは、バックアップの少ない中で、真摯に競技普及に取り組んで いた。何とか彼らの力になりたいと僕は思うようになった。
もちろん、物書きの僕に出来ることは限られている。
楽天イーグルスなど、パシフィックリーグの球団は、プロ野球で“マイナー”な存在であった。しかし、それが逆転しつつある。
楽天イーグルスの徹底したコスト意識、細部に至るエンターテインメントの工夫、あるいは千葉ロ ッテマリーンズのIT技術活用方法などは、“マイナー”が “メジャー”を凌駕するヒントになる。
“弱者”がいかに“強者”に立ち向かうか−−そのことを僕はこの本に書いたつもりだ。それはハン ドボール界はもちろん、他の分野にも参考になることだと思う。


『W杯ビジネス30年戦争』表紙 W杯ビジネス30年戦争

田崎健太 / 新潮社 1500円 (税別)

この本の取材は95年から始まっている。
ジーコの取材のためにブラジルを訪れ、その流れで当時FIFA会長だったジョアン・アベランジェに会った。
当時、FIFAなどいわゆる、国際サッカー政治について国内で報じられることは少なかった。インターネットはまだ完全に普及しておらず、手に入れられる国外の情報は限られていた。
すでにその十年以上前から、電通が出資したISLという企業がワールドカップを仕切っていた。そしてワールドカップのスポンサーには多くの日本企業が名を連ねていた。
日本の企業や人間が関わりながら、どうしてここまで知られていないのだろう。また、欧州の報道を読んでも、日本のことは、ぽっかりと穴が空いていることが多かった。
この世界を、日本人からの視点でも描くことができるはずだ。それが僕がFIFAなどについて調べるきっかけだった。

取材には思っていた以上に時間を費やすことになった。
日本ではFIFA及びISLについては資料が極端に少ない。他の資料を孫引きしたもの、英文の報道をそのまま丸呑みしているものなど、不確かな資料も多々あった。国外でも、特に英国のものは第三世界出身のアベランジェに対して、過度に敵対心を持って書かれており、感情的で参考にならないものも多かった。
アベランジェ、ヨハンソン、プラッター、クラウス・ヘンペル、あるいは電通の高橋氏など、出来る限り本人と会い、取材を重ねた。厄介だったのは、スポーツの世界はグローバル化しており、被取材者が世界中に散らばっていたことだ。
ブラジル、スイス、フランス、スウェーデン、イタリア、ドイツ−−。
ただ、わざわざ足を運んだだけの価値はあった。彼らの話す内容には、これまでまったく知られていないことも多かった。
そうして聞けた話は、相互に補完出来た場合もあり、齟齬があったこともある。集めたデータを吟味しながら、今年になってようやく、三百枚を超える原稿に組み立てた。
サッカーやスポーツビジネスに興味のある人には是非読んで欲しい。また、スポーツという巨大産業を巡る人物ノンフィクションとしても成立している。サッカーに興味のない人が読んでも読み応えのある本になっていると思う。


『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』表紙 ジーコジャパン11のブラジル流方程式

田崎健太 / 講談社プラスα文庫 648円 (税別)

飛行機は次第に高度を下げていった。窓の下には青い海が広がっていた。海の中には無数のヨットが碇泊しているのが見える。海岸沿いには、高層ビルが立ち並んでおり、その奥に上に突き出た黒い奇石、ポン・ジ・アスーカルが聳え立っている。
リオ・デ・ジャネイロに降りる時の風景は、世界の中で最も美しいものの一つといってもいいだろう。“シダージ・マラビーリャ”(美しい街)と称されるリオの芳しい香りが飛行機の分厚い硝子窓の向こうに感じられる。
僕は、ジーコに話を聞くために、この美しい街を何度訪れたことだろう。

彼に初めて会ったのは十年以上前になる。
当時はまだ2002年のワールドカップの開催地を日本と韓国が争っていた。1980年代のバブル経済は弾けており、景気が下向きになる中で、1993年に始まったプロリーグは予想以上の成功だった。それまで日本のプロスポーツは、野球と相撲、公営競技だけだった。野球の一球一球の間こそが、日本人の好むもので、サッカーのラテン的な熱狂は日本人には合わない。そうしたり顔に話す人も多かったなか、Jリーグは成功を収め、観戦チケットはプラチナペーパーとなった。選手の年俸は急騰し、サッカーの回りだけは黄金色に染まっているようだった。
02年にワールドカップが日本で開催されれば、もっと大きな商売の機会が訪れるだろう。バブル経済の余熱はサッカーに向いていた。
当時男性総合週刊誌の編集者だった僕は、編集部に配属されると、「ルールを知っているから」という理由でサッカー担当となった。当時、その出版社がオフィシャルスポンサーをしていたこともあり、Jリーグ関係の連載を担当することになった。その連載が終了した後に、2002年ワールドカップ日本招致を応援するという趣旨の連載を始めることになった。
それがジーコの連載だった。ジーコはブラジルで一度引退した後、日本の住友金属で選手として復活した。住友金属が鹿島アントラーズと発展し、ジーコはその中心選手であった。Jリーグが始まる前は二部リーグに所属していたチームをジーコは、初年度の第一ステージの優勝チームにまで引き上げた。そして、ジーコは二度目の引退後、ブラジルを拠点として、時折日本を往復していた。
僕自身、小学生の時から少年団に入りサッカーをしていた。高校入学して、サッカー部の練習を見に行ったが、自分が始めていた音楽活動の方が楽しそうなのであっさりとサッカーを諦めた。そんな程度のものだったが、中学生の時に見た彼の姿は脳裏に焼き付いていた。
特に82年のワールドカップのブラジル代表、ジーコ、ソクラテス、セレーゾ、ファルカンの四人は、特別の存在だった。その四人の中心人物であるジーコの話を長時間、それもブラジルで聞くことができるというのは魅力的な話だった。
ラテンアメリカというのは、サッカー以外の魅力もあった。
ガルシア・マルケスやバルガス・リョサ、オラシオ・キローガ、ジョルジ・アマードと言ったラテンアメリカの文学には、日本人では考えつかない物語が展開されていた。
ペルーの作家バルガス・リョサは自伝的な要素の入った「密林の語り部」の中で主人公に、テレビを制作した経験があると語らせている。その中の一本がジーコのものであったとも書かれている。それがバルガス・リョサ本人の経験なのか確認はしていないが、ラテンアメリカを語る上で、サッカーという要素を今や外せないという証左にはなる。
その二つの興味を持って、僕はリオ・デ・ジャネイロの地を踏み、それから十年以上、これまでに、延べ二十時間以上、ジーコの話を聞くことになったのだ。
彼は取材に対して協力的であり、出来る限りの時間を使って説明をしようとしてくれた。ただ、彼は饒舌ではあるが、説明上手とは言いがたいと思った。分からないことを聞き返すと、そんなことがどうして聞くのだという表情をしたことが度々あった。
僕は97年六月から休暇をとり、一年間サンパウロを中心にバックパックを背負って、ブラジル全土、そして南米大陸を旅して回った。言葉もそれなりに理解できるようになり、再びジーコの話を聞くようになった。
また、ファルカン、ソクラテス、ジュニオールなどジーコの同時代の人間に話を聞く機会もあった。僕がジーコに聞き返していたことは、ジーコの説明不足ではなく、彼らが共通認識と考えていることも多かった。彼らは、個別の取材ではわざわざ話す必要のないという前提の上で話をしていた。その証拠に彼らの説明は、驚くほど同じだったのだ。
言葉という「葉」の根本には、文化という幹がある。日本とブラジルの文化はかなり違っている。言葉を補わないと、かなりの部分が伝わらないのだということを痛感した。
サッカーという競技はピッチの中の二十人がばらばらに動き、流動的で再現性が少ない。そこで戦術についてあまり深く語ったところで、議論のための議論に陥り、迷路に入ってしまう気がする。
僕はジーコの中に、彼の母国ブラジルを見ている。彼の言葉を僕なりに補うことで、より理解されればと思っている。それによって彼を理解するだけでなく、自分たち日本人をも合わせ鏡のように見る一助になれば嬉しい。

<本書「はじめに」より>


『此処ではない、何処かへ』表紙 此処ではない、何処かへ 広山望の挑戦

田崎健太 / 幻冬舎 1400円 (税別)

2001年3月。大統領選挙を取材するため、ペルーの首都リマにいた僕は、パラグアイのクラブチーム、セロ・ポルテーニョの一員としてリマに訪れていた広山選手と初めて会った。広山選手はこの年の一月からセロ・ポルテーニョにレンタル移籍していた。
彼は大人しい印象のサッカー選手で、混沌とした南米大陸には不似合いだった。どうして南米行きを選んだのだろうと、僕は興味を持ったのだ。 その後、パラグアイ、ブラジル。新大陸から旧大陸へと舞台を移し、ポルトガル、フランス、二年半以上に渡って、彼のことを追いかけることになった。

今や有能なサッカー選手にとって国外に出ていくことは当たり前のことで、そうした意味で彼は特別な存在ではない。
ただ、彼の場合、国外に出た期間すべて順風満帆だったわけではない。パラグアイでは評価を得たが、その後は厳しい時間を過ごした。選手登録の関係、怪我でピッチに立つことのできなかった一年間もある。
そもそも収入面から考えれば、パラグアイのクラブに移籍するのではなく、日本に留まったほうが良かったはずだった。選手としての価値を上げたければ、代表に入ることが一番の近道で、その可能性を高くするには鹿島や磐田といったクラブに移籍するという手もあった。十七才の時から各年代の代表に入っていた彼にとって有利な移籍先を探すことは困難ではなかったはずだ。そうすれば、数千万円の年俸を十年は得られることができた。
しかし、彼は大幅な収入減を受け入れても、日本の外に踏み出すことを決心した。 自分の知らない世界が広がっている。それを体験しないまま、自分の人生が終わることを惜しいと思ったのだ。
二年半の間には苦しい時もあったろうが、彼から一度も後悔の言葉を聞いたことはなかった。真っ当である人間が少なくなったと思わざるを得ない今の世の中で、彼はいつも背筋を伸ばして生きていたという印象がある。
この本は、一人のサッカー選手が国外で成長した物語であるのはもちろんだが、それ以上に同時代に生きる一人の男の生き様を描いたつもりだ。
その試みが成功しているかどうかは本を読んでくれた人の判断に任せるしかない。ただ、この本から、何かを感じ、力を得てくれる人が一人でもいてくれれば嬉しいと思っている。