『W杯ビジネス30年戦争』表紙 W杯ビジネス30年戦争

田崎健太 / 新潮社 1500円 (税別)

この本の取材は95年から始まっている。
ジーコの取材のためにブラジルを訪れ、その流れで当時FIFA会長だったジョアン・アベランジェに会った。
当時、FIFAなどいわゆる、国際サッカー政治について国内で報じられることは少なかった。インターネットはまだ完全に普及しておらず、手に入れられる国外の情報は限られていた。
すでにその十年以上前から、電通が出資したISLという企業がワールドカップを仕切っていた。そしてワールドカップのスポンサーには多くの日本企業が名を連ねていた。
日本の企業や人間が関わりながら、どうしてここまで知られていないのだろう。また、欧州の報道を読んでも、日本のことは、ぽっかりと穴が空いていることが多かった。
この世界を、日本人からの視点でも描くことができるはずだ。それが僕がFIFAなどについて調べるきっかけだった。

取材には思っていた以上に時間を費やすことになった。
日本ではFIFA及びISLについては資料が極端に少ない。他の資料を孫引きしたもの、英文の報道をそのまま丸呑みしているものなど、不確かな資料も多々あった。国外でも、特に英国のものは第三世界出身のアベランジェに対して、過度に敵対心を持って書かれており、感情的で参考にならないものも多かった。
アベランジェ、ヨハンソン、プラッター、クラウス・ヘンペル、あるいは電通の高橋氏など、出来る限り本人と会い、取材を重ねた。厄介だったのは、スポーツの世界はグローバル化しており、被取材者が世界中に散らばっていたことだ。
ブラジル、スイス、フランス、スウェーデン、イタリア、ドイツ−−。
ただ、わざわざ足を運んだだけの価値はあった。彼らの話す内容には、これまでまったく知られていないことも多かった。
そうして聞けた話は、相互に補完出来た場合もあり、齟齬があったこともある。集めたデータを吟味しながら、今年になってようやく、三百枚を超える原稿に組み立てた。
サッカーやスポーツビジネスに興味のある人には是非読んで欲しい。また、スポーツという巨大産業を巡る人物ノンフィクションとしても成立している。サッカーに興味のない人が読んでも読み応えのある本になっていると思う。


『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』表紙 ジーコジャパン11のブラジル流方程式

田崎健太 / 講談社プラスα文庫 648円 (税別)

飛行機は次第に高度を下げていった。窓の下には青い海が広がっていた。海の中には無数のヨットが碇泊しているのが見える。海岸沿いには、高層ビルが立ち並んでおり、その奥に上に突き出た黒い奇石、ポン・ジ・アスーカルが聳え立っている。
リオ・デ・ジャネイロに降りる時の風景は、世界の中で最も美しいものの一つといってもいいだろう。“シダージ・マラビーリャ”(美しい街)と称されるリオの芳しい香りが飛行機の分厚い硝子窓の向こうに感じられる。
僕は、ジーコに話を聞くために、この美しい街を何度訪れたことだろう。

彼に初めて会ったのは十年以上前になる。
当時はまだ2002年のワールドカップの開催地を日本と韓国が争っていた。1980年代のバブル経済は弾けており、景気が下向きになる中で、1993年に始まったプロリーグは予想以上の成功だった。それまで日本のプロスポーツは、野球と相撲、公営競技だけだった。野球の一球一球の間こそが、日本人の好むもので、サッカーのラテン的な熱狂は日本人には合わない。そうしたり顔に話す人も多かったなか、Jリーグは成功を収め、観戦チケットはプラチナペーパーとなった。選手の年俸は急騰し、サッカーの回りだけは黄金色に染まっているようだった。
02年にワールドカップが日本で開催されれば、もっと大きな商売の機会が訪れるだろう。バブル経済の余熱はサッカーに向いていた。
当時男性総合週刊誌の編集者だった僕は、編集部に配属されると、「ルールを知っているから」という理由でサッカー担当となった。当時、その出版社がオフィシャルスポンサーをしていたこともあり、Jリーグ関係の連載を担当することになった。その連載が終了した後に、2002年ワールドカップ日本招致を応援するという趣旨の連載を始めることになった。
それがジーコの連載だった。ジーコはブラジルで一度引退した後、日本の住友金属で選手として復活した。住友金属が鹿島アントラーズと発展し、ジーコはその中心選手であった。Jリーグが始まる前は二部リーグに所属していたチームをジーコは、初年度の第一ステージの優勝チームにまで引き上げた。そして、ジーコは二度目の引退後、ブラジルを拠点として、時折日本を往復していた。
僕自身、小学生の時から少年団に入りサッカーをしていた。高校入学して、サッカー部の練習を見に行ったが、自分が始めていた音楽活動の方が楽しそうなのであっさりとサッカーを諦めた。そんな程度のものだったが、中学生の時に見た彼の姿は脳裏に焼き付いていた。
特に82年のワールドカップのブラジル代表、ジーコ、ソクラテス、セレーゾ、ファルカンの四人は、特別の存在だった。その四人の中心人物であるジーコの話を長時間、それもブラジルで聞くことができるというのは魅力的な話だった。
ラテンアメリカというのは、サッカー以外の魅力もあった。
ガルシア・マルケスやバルガス・リョサ、オラシオ・キローガ、ジョルジ・アマードと言ったラテンアメリカの文学には、日本人では考えつかない物語が展開されていた。
ペルーの作家バルガス・リョサは自伝的な要素の入った「密林の語り部」の中で主人公に、テレビを制作した経験があると語らせている。その中の一本がジーコのものであったとも書かれている。それがバルガス・リョサ本人の経験なのか確認はしていないが、ラテンアメリカを語る上で、サッカーという要素を今や外せないという証左にはなる。
その二つの興味を持って、僕はリオ・デ・ジャネイロの地を踏み、それから十年以上、これまでに、延べ二十時間以上、ジーコの話を聞くことになったのだ。
彼は取材に対して協力的であり、出来る限りの時間を使って説明をしようとしてくれた。ただ、彼は饒舌ではあるが、説明上手とは言いがたいと思った。分からないことを聞き返すと、そんなことがどうして聞くのだという表情をしたことが度々あった。
僕は97年六月から休暇をとり、一年間サンパウロを中心にバックパックを背負って、ブラジル全土、そして南米大陸を旅して回った。言葉もそれなりに理解できるようになり、再びジーコの話を聞くようになった。
また、ファルカン、ソクラテス、ジュニオールなどジーコの同時代の人間に話を聞く機会もあった。僕がジーコに聞き返していたことは、ジーコの説明不足ではなく、彼らが共通認識と考えていることも多かった。彼らは、個別の取材ではわざわざ話す必要のないという前提の上で話をしていた。その証拠に彼らの説明は、驚くほど同じだったのだ。
言葉という「葉」の根本には、文化という幹がある。日本とブラジルの文化はかなり違っている。言葉を補わないと、かなりの部分が伝わらないのだということを痛感した。
サッカーという競技はピッチの中の二十人がばらばらに動き、流動的で再現性が少ない。そこで戦術についてあまり深く語ったところで、議論のための議論に陥り、迷路に入ってしまう気がする。
僕はジーコの中に、彼の母国ブラジルを見ている。彼の言葉を僕なりに補うことで、より理解されればと思っている。それによって彼を理解するだけでなく、自分たち日本人をも合わせ鏡のように見る一助になれば嬉しい。

<本書「はじめに」より>


『此処ではない、何処かへ』表紙 此処ではない、何処かへ 広山望の挑戦

田崎健太 / 幻冬舎 1400円 (税別)

2001年3月。大統領選挙を取材するため、ペルーの首都リマにいた僕は、パラグアイのクラブチーム、セロ・ポルテーニョの一員としてリマに訪れていた広山選手と初めて会った。広山選手はこの年の一月からセロ・ポルテーニョにレンタル移籍していた。
彼は大人しい印象のサッカー選手で、混沌とした南米大陸には不似合いだった。どうして南米行きを選んだのだろうと、僕は興味を持ったのだ。 その後、パラグアイ、ブラジル。新大陸から旧大陸へと舞台を移し、ポルトガル、フランス、二年半以上に渡って、彼のことを追いかけることになった。

今や有能なサッカー選手にとって国外に出ていくことは当たり前のことで、そうした意味で彼は特別な存在ではない。
ただ、彼の場合、国外に出た期間すべて順風満帆だったわけではない。パラグアイでは評価を得たが、その後は厳しい時間を過ごした。選手登録の関係、怪我でピッチに立つことのできなかった一年間もある。
そもそも収入面から考えれば、パラグアイのクラブに移籍するのではなく、日本に留まったほうが良かったはずだった。選手としての価値を上げたければ、代表に入ることが一番の近道で、その可能性を高くするには鹿島や磐田といったクラブに移籍するという手もあった。十七才の時から各年代の代表に入っていた彼にとって有利な移籍先を探すことは困難ではなかったはずだ。そうすれば、数千万円の年俸を十年は得られることができた。
しかし、彼は大幅な収入減を受け入れても、日本の外に踏み出すことを決心した。 自分の知らない世界が広がっている。それを体験しないまま、自分の人生が終わることを惜しいと思ったのだ。
二年半の間には苦しい時もあったろうが、彼から一度も後悔の言葉を聞いたことはなかった。真っ当である人間が少なくなったと思わざるを得ない今の世の中で、彼はいつも背筋を伸ばして生きていたという印象がある。
この本は、一人のサッカー選手が国外で成長した物語であるのはもちろんだが、それ以上に同時代に生きる一人の男の生き様を描いたつもりだ。
その試みが成功しているかどうかは本を読んでくれた人の判断に任せるしかない。ただ、この本から、何かを感じ、力を得てくれる人が一人でもいてくれれば嬉しいと思っている。