『球童 伊良部秀輝伝』 表紙
 
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『球童 伊良部秀輝伝』 2014年5月8日発売

田崎健太 / 講談社 1,728円 (税込)

 

 ぼくにとって二つ年下の伊良部秀輝はずっと気になる男だった。
彼が香川県の尽誠学園からプロ入りしたときのことは良く覚えている。そしてプロ入りからしばらくは、素晴らしい速球を持っているのになぜか勝てない投手だった。このまま消えていくのかと思っていると、突然、凄まじい勢いで勝ちだした。すると、ヤンキース行きを求めて、ロッテ・マリンーズと騒動を起こすようになった。
 その時、ぼくは週刊誌で働いていた。実際に伊良部さんを取材したことのある人間から、メディアに出ているのと違って、ぶっきらぼうなところはあるものの、きちんと取材に答えてくれるのだと聞いたことがあった。
 ぼくは人の影に惹きつけられるところがある。アメリカ人の父親と生き別れになっているという出自も含めて、圧倒的な才能がありながら世の中を上手く渡っていけない彼に興味を持った。九九年末、ぼくが出版社を辞めたとき、書きたい人間としてリストを作ったことがあった。伊良部さんはその中の一人に入っていた。
 ノンフィクションとは縁と運に大きく左右される――。ひょんなことから、事が大きく進むこともある。
 ぼくは年間のうち、約二ヶ月から三ヶ月、国外出張に出かけている。その中で、中継地点としてロサンゼルスを度々訪れるようになっていた。そこで伊良部さんを紹介してくれる人間と知り合った。
 そして伊良部さんに会うことになった。それは今から約三年前の二〇一一年五月のことだった。初日は食事をしながら四時間、翌日も撮影のため半日、一緒に過ごした。伊良部さんは人見知りをするのか、最初は目も合わさなかった。それが次第に打ち解け、様々な話をするようになった。ぼくは、少しは親しくなった気でいた。だから別れ際、またロサンゼルスに来るときには話を聞かせて下さいねと約束して別れた。
 しかし――。
 その二ヶ月後、伊良部さんは自らの命を絶った。ぼくは彼にきちんと話を聞いた最後の人間となった。
 当初、彼を書く気はなかった。自殺した人間を調べることは気が進まない。そして、彼は様々なことを隠していた。大変な取材になるという直感があった。
 それでも死後一年後、彼を書こうと決めた。
 死の直後、彼に関する様々な記事を目にした。その後、遺骨を巡って親族が衝突しているという記事が続いた。そこからはぼくが見た、物静かで繊細、そして野球を熱心に語る伊良部の姿が見えてこなかったのだ。
 生前、彼と付き合いのあった人間を訪ね、彼が吸った空気を感じたいと、育った尼崎を始め、香川県、高知県、ロサンゼルス、ニューヨーク、沖縄、宮古島を訪ねた。
 伊良部さんのアメリカ人の実の父親にも会いに行った。取材していくうちに様々な発見があった。
 ノンフィンションを書くことは、被取材対象とがっぷり四つに組むことである。相手が強靱な肉体を持ち、無尽蔵の力を発揮すれば、こちらの力もそれに応じなければならない。今回はまさにそんな取材だった。この「球童 伊良部秀輝伝」を書き上げた今、ぼくは彼に作家として成長させてもらった気がする。


『ザ・キングファーザー』表紙
 
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『ザ・キングファーザー』  2013年6月20日発売

田崎健太 / カンゼン 1,728円 (税込)

 

 それらしき男は、まだ来ていないようだった。
 男との待ち合わせ場所は、東京、芝にある東京プリンスホテルの一階ロビーの喫茶室だった。この日の東京は青い空が一面に広がる快晴だった。ランチボックスでも持って公園に出掛けたくなるような陽気だった。壁一面の窓硝子の向こう側には太陽の光に照らされた青々とした樹木が見えた。入ってくる人間を見逃すことがないように、喫茶店の入口付近に座って待つことにした。
―― 一体、どんな男なのだろうか?
 期待よりも怖い物見たさ、というのが正直なところだった。
 待ち人の名前は納谷宣雄と言った。カズこと三浦知良の父親である。実父でありながら姓が違うのは、彼は離婚しており、知良は母親の三浦姓を名乗っているからだ。
 とにかく彼には噂が多かった。
〈サッカーボールの中に麻薬を入れて韓国から密輸して逮捕された〉
〈昔は暴力団の構成員だった〉
〈ブラジルへサッカー留学生を送って荒稼ぎしている。トラブルを起こして、刑務所に入れられたことがあり、二度とブラジルの地を踏めない〉
〈アルゼンチン人の殺し屋がついており、彼に不都合なことを書くと消される〉 (エピローグより)

☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 納谷宣雄さんのことはきちんと描かなければならないとずっと思っていた。サッカーショップ経営、サッカー留学、スタジアムでの物品販売、代理人業―― 日本で彼が先鞭をつけた事業は幾つもある。そして、その影響は本人が知らないところにまで及んでいる。
 例えば ――。
 九七年、ぼくはブラジルのクラブを回っている。その中の一つにミラソルというクラブがあった。ぼくたちが訪れた時、トップチームの試合が行われた。その前座であるジュベニールの試合にぼくは特別に出場させてもらった。ぼくは当時、二九才だった。十六、七才の選手に交じって必死で走り回ったことを覚えている。
 この半年ほど後のことだ。ミラソルを千葉県の渋谷幕張高校サッカー部の宗像マルコス監督が訪れている。このクラブで練習参加していた日系人選手を見るためだった。
 納谷さんが日本へ連れて行ったアデミール・サントスが成功して以降、日本の高校はブラジル人留学生を求めるようになった。千葉の渋谷幕張高校もその一つだった。マルコスは日本行きを希望する多くのブラジル人を見たが、しっくり来る選手がいなかった。日本で生活していくには、サッカーの巧さだけでなく、異文化を許容する能力が必要だった。
―― 今年はいい選手がいない。
嘆くマルコスにジョン・カルロスは「日本人みたいな顔をした選手がミラソルにいるよ」と教えた。ジョンは納谷さんが経営する日伯フッチボールでコーチを務めていた。。ミラソルには日本留学生を受け入れており、ジョンはその日系人選手のことを目にしていたのだ。
 マルコスはミラソルで練習していた大柄な日系人選手を気に入り、日本に連れて行くことにした。後の田中マルクス闘莉王である。
 納谷さんがいなければ、闘莉王は日本に行くことも、帰化して日本代表になることもなかった。納谷さんがブラジルに蒔いた種は、様々な形で果実となっている。
 彼は三浦知良選手の父親という以上に、日本のサッカー史から外せない人間である。過去に問題があったとしても、その功績は変わらない。その想いがこうして本になった。 (後書きより抜粋)


『維新漂流』表紙
 
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『維新漂流』 中田宏は何を見たのか 2013年5月24日発売

田崎健太 / 集英社インターナショナル 1,620円 (税込)

 

 ぼくが中田宏さんに初めて会ったのは、二〇〇二年のことだった。当時、衆議院議員だった彼が横浜市長選挙に出る直前のことである。この時は、本当にすれ違った程度だった。中田さんは不利だと見られていた市長選に勝ち、政令指定都市で史上最年少の市長となった。そして横浜市の財政を立て直し、改革派若手市長として広く知られるようになった。
 その後、ぼくが再会したのは二〇一〇年八月末のことだ。彼は公約通り二期で横浜市長を辞して、日本創新党という新党を山田宏さんと一緒に立ち上げ、参議院選挙に出馬、落選していた。
 落選の原因は色々とある。その一つは、週刊誌による醜聞記事だった。後に裁判で明らかになるように、これは全く根も葉もない記事だった。この二度に渡る連載記事により、清潔な青年市長という彼の印象はすでに霧散していた。横浜市長を辞任した経緯をきちんと説明しなかった(これには理由がある!)こともあり、胡散臭い政治家と世間から思われている節もあった。
 正直に言うと、ぼくも彼に関する醜聞を半ば信じていた。全てが真実ではないとしても、幾らかの真実が混じっているだろうと思っていたのだ。
 その日、ぼくは彼に対する疑惑≠不躾なほど突っ込んで聞いた。時間は四時間にも及んだ。被取材者の中には病的な嘘つきが混じっていることがある。だから、ぼくはかなり疑って話を聞く習癖がある。そんな自分でも彼の話は筋が通っており、ほぼ正しいと感じた。
 それ以来、ぼくは毎月、彼に話を聞くことなった。そして、ほぼ≠ニいう副詞はすぐに消えた ――。
 週刊誌の誤った醜聞で彼とその家族は傷つけられていた。初めは彼についてきちんとした原稿を書き、誤解を解く一助になれればという気持ちだった。それがかつて週刊誌で働いていた人間としての責務であるとも思っていた。
 そのうち、彼は橋下徹氏と近くなった。ただ、最初は全面的な信頼ではなかった。橋下氏の政治家としての覚悟は高く評価するものの、皮膚感覚として相容れない面があるようにも見えた。それが大阪市特別顧問に就任してから急速に変わった。中田さんを通して橋下という政治家を描けないかと思ったのは、その頃だ。
 橋下氏が大阪でやろうとしていることの多くを、中田さんは横浜市ですでに実践していた。何かとワイドショー的に香りのある橋下氏に中田さんを重ねると、その本質が浮き上がってくるように思えたのだ。
 本の中では二人の会話をこう書いた。
〈「連日、新聞で報じられているように……」
 中田が大阪維新の会の連携相手として連絡を取っていた複数の国会議員の動きを説明すると、橋下が生返事をしていることに気がついた。
「もうそういう働きかけはやめませんか?」
 橋下は中田の言葉を遮った。
「向こうにその気がないのに、こちらが色々と言っても仕方がありませんし。どうしても働きかけが必要ならば、こちらから直接やりますよ」
「もちろん、こちらとしても無理にという話はしていませんよ」
 中田はむっとしながら返した。〉
 これは昨年の衆議院総選挙前のことだ。
 中田さんは〈橋下徹、維新の会と親しい〉と紹介されていたが、こんな風なひりひりするようなやりとりがあった。
 この本に書いたように維新の会は問題を抱えた組織だ。しかし、自民党や民主党のような既存政党はどうか??こちらは外面だけ整えているだけで、彼らに任せていると日本が立ちゆかなくなる。
 維新の会の抱えている問題は日本の政治の問題を知ることである。だからぼくはこの本を書いたのだ。


『偶然完全 勝新太郎伝』(表紙)
 
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偶然完全 勝新太郎伝 2011年12月2日発売

田崎健太 / 講談社 2,052円 (税込)

 ぼくは勝新太郎の最後の「弟子」だった。ただ、ぼくは役者でも映画関係者でもない。三味線や長唄を教わったわけでもない。いわば、「 」(括弧)つきの弟子だ。
 かつて、勝は週刊誌で人生相談を連載しており、ぼくはその担当編集者だった。週一回、二ページの連載にもかかわらず、ほぼ毎日彼のところに通った時期もあった。
 いつもこんな風だ。
 昼前に彼の自宅で待ち合わせ、昼食に出かける。山王下の日枝神社近くにあった蕎麦屋が多かった 。
 店に入ると、ビールと一緒にかき揚げや板わさを頼んだ。白木のテーブルに運ばれてきた黄金色をしたかき揚げを、箸で潰して分けやすくすると「食べな」と、ぼくに勧めた。揚げたてのかき揚げは 、口の中に入れると香ばしい味がした。当時、二十代半ばだったぼくにとって、昼間から蕎麦屋で酒を飲むのは、大人の世界を覗いたような気になった。
 ざる蕎麦には、日本酒を掛けてほぐすのが勝の食べ方だった。初めて一緒に蕎麦を食べた時、「ち ょっと待て、そこまでだ」と箸を止めさせられた。ぼくはつゆをつけすぎるというのだ。「しっぽのちょっとだけ、浸けるんだ」と言うと、派手に音を立てて蕎麦を吸い込んで見せた。まるで芝居の一 場面だった。
(中略)
 勝は不当に軽んじられていると思う。
 代表作の『座頭市』の映画は全部で二六本作られた。これは渥美清の『男はつらいよ』、三益愛子 の『母もの』、森繁久弥の『社長』シリーズに続く数である。『座頭市』と同時期に、勝は『悪名』 と『兵隊やくざ』シリーズを持っていた。悪名は十六本、兵隊やくざは九本、それぞれ製作されてい る。こんな俳優は他にいない。
 世界を席巻した香港映画に勝は多大な影響を与えている。ブルース・リーは世界的に名前を知られ る前、勝を訪ねている。尊敬する勝の前で、彼は直立不動だった。椅子を勧められても、座らなかっ たという。ジャッキー・チェンは映画の中で、座頭市の物真似をした。
 クエンティン・タランティーノが『パルプフィクション』の試写会で来日したとき、「ずっと会い たかった」と感激した表情で勝の手を握った姿をぼくは目の当たりにしている。ぼくがキューバを旅した時、誰もが市のことを知っていることに驚いた。フィデル・カストロは座頭市の熱烈なファンで 、勝はキューバに招かれたこともあった。
 ところが、日本では座頭市さえ危うい。
 年若い担当編集者と座頭市の話をしたことがあった。その編集者は、「座頭市といえば(北野)武 さんですよね」とさらりと言った。
 世間では勝は忘れられつつあるのかもしれない。そんな気持ちに後押しされて、勝のことを改めて 調べ始めた。
 短い期間とはいえ、ぼくは濃厚な時間を過ごし、様々な話を聞いたつもりだった。それはあくまで も、つもりだった。知らない話が次々と出てきた。
 勝プロダクション倒産の原因は、巷で言われているように映画やテレビ番組の製作費超過や派手 な遊興費だけではなかったこと、モハメッド・アリのドキュメンタリー映画の失敗、アヘン事件、昭和史の一つの謎であるロシア船ナシモフ引き揚げに関する話、借金の一方、貸した金も多数あったこと、 最後の座頭市を孤独な状態で作っていたこと、そして本当に優しい男であったこと ――。
 ぼくは思った。この生き様こそ、勝の最大の作品ではないか、と。
 最後の「弟子」として、ぼくなりに勝の人生を書いてみることにした。それは、本意ならずも裏切 ることになってしまった、「弟子」としての贖罪でもあった ――。
(『偶然完全 勝新太郎伝』 エピ ローグより抜粋)


『辺境遊記』 (表紙)
 
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出版社のページ

辺境遊記 2010年4月19日発売

文・田崎 健太  絵・下田 昌克 / 英治出版 2,268円 (税込)

 この本は絵描きの下田昌克と共に世界中を旅した本である。
 訪れた国は、キューバ、リオ・デ・ジャネイロ、小笠原諸島、ツバル、カトマンズ、サハリン、南大東島、ダラムサラ ――。東京から二四時間以上掛かる場所を選んで取りあげている。  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ずっと、旅は一人でするものだと思っていた。
 とくにバスの旅がいい。
 窓の外に、橙色の太陽が地平線に沈んでいくのが見える。玄関先で夕涼みしている上半身裸の老人の影が長く伸びている。隣の家では、たなびく煙で食事の準備をしていることが分かる。
 日が落ちてしまうと、外は真っ暗闇になる。窓硝子に映るのは、日に焼けた自分の顔だけだ。
 見知らぬ場所を一人で旅していると、五感が冴えてくる。目をつぶって、出会った人のことを思い出す。
 一人きりで色んなことを考えているうちに、土地の空気がすっと自分の中に流れ込んでくるのだ。
 ぼくはそんな旅をずっと続けてきた。
 この本は、それとは違っている。
 下田が絵を描き、ぼくが話を聞く。キューバでこの方法を始めた。
 ハバナで絵を描かせてくれと頼むのはスペイン語を話すぼくの役目だった。
「この男は日本から来た絵描きだ。あなたの絵が描きたいと行っている。少し時間をくれないか」
 ほとんどの人は、絵を描くというと、へぇと興味を示してくる。いったい、どんな絵を描くんだと――。
 下田がスケッチブックを広げて、これまで書いた絵を見せる。
「絵を描くのにどれぐらい時間が掛かる?」
「四十分から一時間半」
 ぼくが答えると、相手は頷く。
 下田が色鉛筆の入ったケースを広げ、色鉛筆を一本掴む。白い画用紙に、叩きつけるように輪郭を描き始める。紫や橙といった、人の顔を描くのに使わない色が多い。人は目を見開いて、固まっている。
「動いても大丈夫だよ」
 ぼくが声を掛けると、ふうっと息を吐いて、柔らかい顔になるのだ。
 自分がどんな風に描かれるのだろうと不安そうに重いながら、、ぼくに話しかけてくる。ぼくは絵を描かれる人たちと自然に親しくなった。
 絵を描かせてくれる相手を探すのは、そう簡単ではない。
第一に、下田が絵を描きたいと思った人間でなくてはならない。
 苦労したのは、リオ・デ・ジャネイロだ。 カーニバルの喧噪の中、絵を描かせて貰う人を探すのは無謀だった。カーニバルの会場で声を掛けても、準備に追われており、上の空だった。
 終わった後ならば時間がとれると、なんとか引き受けてくれる女の子を探し当てた。ところが、翌日彼女の携帯電話は繋がらなかった。あんな楽しいカーニバルで、全てを忘れてしまったのだろうと納得するしかなかった。
 下田の色鉛筆の色使いは、光の加減で変わってくる(ようだ)。太陽の光が落ちていき、絵を描いている下田が困惑した顔になったことがあった。強い太陽と、闇の差は大きい。光線の具合を修正し、描き終わるまでに2時間近く掛かったこともあった。
 時間が掛かる分、絵を描かれた人は、単に話をするよりもずっと、心を許してくれることに気がついた。
 下田が空けた穴を、ぼくがこじ開けて土地になじんでいくような感覚があった。
 一人でなくても旅は面白いのだ。
 またいつの日か、下田と世界を回る旅をする気がしている。
 たぶん、其処は不便で、飛びきり素敵な辺境だろう――。 (後書きより)


『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』 表紙 W杯に群がる男たち ─巨大サッカービジネスの闇─

田崎健太 / 新潮文庫 500円

 この本は2006年に出した『W杯ビジネス30年戦争』を文庫化したものである。
通常、文庫とはハードカバーの単行本を、同じ内容で、安価で小型にしたもの、と考えていい。
 ただ、この本は違う。
 『W杯ビジネス30年戦争』の取材は、1995年にブラジルのリオ・デ・ジャネイロでFIFA(国際サッカー連盟)会長だったジョアン・アベランジェへインタビューしたことから始まった。
 世界のサッカーを仕切る怪物を目の前にして、ぼくは圧倒された。
 結局、彼の言いたいことを記事 にまとめただけになった。
 そして、一筋縄ではいかない世界に対して興味を持った。
 ところが、当時は国際スポーツ政治に関する記事を日本で集めることは難しかった。国外の文献に あたり、自分なりに分析するしかなかった。
 このときは、W杯に関するビジネスが加速している時期だった。
週刊誌の編集部に籍を置いていたぼくは、2002年W杯開催招致合戦を取材するため、スイス、イタ リア、ドイツへ出かけた。ちなみにこの時、FIFAを案内してくれた、腰が軽くて、愛想のいい男が、ゼップ・ブラッター 現在のFIFA会長である。
 取材するうちに、電通のタカハシという名前をしばしば耳にするようになった。
世界のスポーツ界では高橋氏は著名だったが、日本ではほとんど知られていなかった。
 日本のメディアはしばしば些末なことに大きな労力を割き、事の本質を見失うという特性がある (少し前になるが、酒井法子や押尾学の事件に報道陣が大挙する意味がわからない。今だって、ハイチの地震はどうなっているのか。もっと大切なことがあるはずだ)。
 また、電通という企業が、日本で特別な力を持っていたことで、メディア側が報道を自己規制した 面もあったろう。
 ぼくは、出版社を退社したあと、電通に取材して、W杯のビジネスについて書くことを決めた。
 数度にわたり高橋氏に話を聞き、欧州サッカー連盟会長だったレナート・ヨハンセンに会うために 、スウェーデンへも飛んだ。
 スイスでは、ヨハンセンの参謀を務めたクラウス・ヘンペルとユルゲン・レンツに話を聞いた。
 東京では電通の高橋氏の部下たちに会った。
 そして、ブラジルで再びアベランジェに話を聞いた。今度は、ぼくは聞くべきことを慎重に準備した。アベランジェは巧みに話をはぐらかしたが、ぼくは何度も質問を続け、最後には彼を怒らせたほどだった。
 十年間のあいだに、ぼくも成長していた。
 2006年W杯開幕の近づく足音を聞きながら、新潮社の隣にある旅館に缶詰になって『W杯ビジネス 30年戦争』という本にまとめたのだ。
 いつも単行本の原稿を編集者に渡すときは、後ろ髪を引かれるような気分になる。
 もっと手を入れれば、良くなるのではないか、あそこはあれで良かったのか、もっと時間が欲しい この本は特にその思いが強かった。
 単行本が出たあとも、ぼくはブラジル出張の暇を見つけて、過去の新聞を漁り、資料を集めた。
 ひょんなことから、ずっと取材をしたいと思っていたエリアス・ザクーに会うことができた。レバ ノン人のザクーは、ブラジルのジャーナリストでも今となっては知る人は少ないが、アベランジェの懐刀であり、サッカー界の黒幕である。スポーツ界を闊歩する最初の「代理人」と言ってもいいだろう。
 こうした取材を加えて、文庫はできあがった。
 見た目は小振りになったが、ぼくの中ではこの本の重みが増している。
 是非、読んで欲しいと思う。


『楽天が巨人に勝つ日』表紙 楽天が巨人に勝つ日 ─スポーツビジネス下克上─

田崎健太 / 学研新書 740円 (税別)

 本書の後書きにも書いたが、この本を書くきっかけとなったのは、早稲田大学での講義を終えた後 の雑談の中からだった。
 07年の前期、僕は早稲田大学でスポーツジャーナリズムについて話すことになった。僕を誘ってく れたのは、10年以上の付き合いになる、早稲田大学の平田竹男教授だった。僕は上段から学生を教えることはできないが、スポーツの現場に関わる自分の経験を話すことはできると引き受けることにした。
 この年から始まったスポーツジャーナリズムの講座は、一般教養の授業の中でも人気が高かった。 参加する学生は熱心で、最後まで受講人数は減らなかったという。そんな彼らの前で少々緊張しながら話をした後、平田さんとお茶を飲んだ。
 その時、何かのきっかけで、楽天ゴールデンイーグルスの話となった。
 平田さんは楽天イーグルスが、プロ野球界の一つの成功モデルになるかもしれないと言った。
 僕は、楽天イーグルスが初年度から黒字を出したことは朧気に知っていたが、それは選手の年俸を 削っただけだろうと思っていた。成績を見れば、二年続けて最下位。いくら短期的に球団が黒字を出 しても、それを成功とはいえない。
 これまで、野球を取材をすることはあったが、プロ野球の球団とは少し距離があった。ただ、平田 さんの言葉にひっかかりを感じ、自分で調べてみることにした。

 僕が子供の頃、夢中になったのはサッカーだった。当時日本にはプロリーグはなく、少年団に入っ てボールを蹴り、専門誌を回し読みして欧州のトップリーグを夢想した。もちろん、真剣にやってい たのはサッカーだったが、近所の年上の友人たちとはしばしば野球に興じていた。テレビ放映のないサッカーよりも、見る方に関しては野球が好きだった。その後、僕は音楽に熱中し、スポーツの世界とは一度縁遠くなった。
 スポーツの世界に引き戻されたのが、出版社に入社し、男性総合週刊誌で働き始めた時のことだ。
 Jリーグが開始するということで、担当が必要になった。「ルールを知っている」という理由で、 僕はサッカー担当を任されることになった。もちろんサッカー専属という訳ではなく、事件や芸能などを追いながら、サッカーの取材をするようになった。
 当時のサッカー(及びスポーツジャーナリズム)の世界は、みなが手探りだった。週刊誌の世界では先達がいなかったこともあり、好きな企画が立てられた。地域密着のクラブチームという発想は日本社会にとって新鮮で、スポーツ界全体が変わっていくのを目の当たりにした。
 しばしばサッカーの他に、野球の記事を担当することもあった。根本陸夫さんや仰木彬さんなど素 敵な人間に取材できたのはいい思い出だが、人気球団についてはあまりいい思い出がない。僕たちの 週刊誌は、取材をして喜ばれる類のメディアではなかった(卑下するつもりはなく、むしろ相手の喜ぶ記事ばかり作っているわけではないという誇りであった)。サッカー界と比べると、野球界は閉鎖的で“内向き”だった(もちろんJリーグにも広報体制に問題のあるクラブもあったが)。かつてあれほど野球を見るのが好きだったのに、と興ざめした思いがある。

 僕は、1999年末で働いていた出版社を辞めた時、ノンフィクションを書き始めた。スポーツは一つの分野として、仕事が来れば書けばいいと考えていた。
 ところが、僕はスポーツに強く引き寄せられた。
 Jリーグが成功し、スポーツが産業として成立、その後中田英寿のように国外に出て行く選手が出 てきていた。
 スポーツ、特にサッカーは他の分野と比べて変化のダイナミズムが大きかった。 そして、僕は「W 杯30年戦争」や「此処ではない何処かへ」など、サッカーについて、何冊かの本を上梓することにな った。
 ところが、ここ数年、サッカーの世界は、成長が完全に収束し、逆に硬直化しつつあり、書き手と しての面白みが減っているように思っていた。
 そんな中、プロ野球、特にパシフィック・リーグを調べてみると、楽天イーグルスはかつてのプロ 野球界のやり方を完全に否定していた。年間赤字四十億円程度が珍しくなかった中、楽天イーグルス は様々な工夫を凝らし経営努力をしていた。二年目からは赤字に転落したが、それはきちんとした未来ある“赤字”のようだった。
取材を進めていくと、そこで奮闘している人間たちが、若く、何より楽しんで仕事をしており、眩しい程だった。僕は、彼らの姿を描いてみたくなったのだ。
 そして、もう一つ−−。
 ここ数年、僕はハンドボールという競技を追いかけていた。先日の北京五輪予選のやり直しで注目 されたが、それまでは国際試合の取材に出かけても、報道陣は、僕と専門誌一人ということがあったほど、典型的なマイナー競技だった。
 それでも、ハンドボールの選手たちは、バックアップの少ない中で、真摯に競技普及に取り組んで いた。何とか彼らの力になりたいと僕は思うようになった。
 もちろん、物書きの僕に出来ることは限られている。
楽天イーグルスなど、パシフィックリーグの球団は、プロ野球で“マイナー”な存在であった。しかし、それが逆転しつつある。
 楽天イーグルスの徹底したコスト意識、細部に至るエンターテインメントの工夫、あるいは千葉ロ ッテマリーンズのIT技術活用方法などは、“マイナー”が “メジャー”を凌駕するヒントになる。
 “弱者”がいかに“強者”に立ち向かうか−−そのことを僕はこの本に書いたつもりだ。それはハンドボール界はもちろん、他の分野にも参考になることだと思う。


『W杯ビジネス30年戦争』表紙 W杯ビジネス30年戦争

田崎健太 / 新潮社 1500円 (税別)

 この本の取材は95年から始まっている。
 ジーコの取材のためにブラジルを訪れ、その流れで当時FIFA会長だったジョアン・アベランジェに会った。
  当時、FIFAなどいわゆる、国際サッカー政治について国内で報じられることは少なかった。インターネットはまだ完全に普及しておらず、手に入れられる国外の情報は限られていた。
 すでにその十年以上前から、電通が出資したISLという企業がワールドカップを仕切っていた。そしてワールドカップのスポンサーには多くの日本企業が名を連ねていた。
  日本の企業や人間が関わりながら、どうしてここまで知られていないのだろう。また、欧州の報道を読んでも、日本のことは、ぽっかりと穴が空いていることが多かった。
  この世界を、日本人からの視点でも描くことができるはずだ。それが僕がFIFAなどについて調べるきっかけだった。

 取材には思っていた以上に時間を費やすことになった。
 日本ではFIFA及びISLについては資料が極端に少ない。他の資料を孫引きしたもの、英文の報道をそのまま丸呑みしているものなど、不確かな資料も多々あった。国外でも、特に英国のものは第三世界出身のアベランジェに対して、過度に敵対心を持って書かれており、感情的で参考にならないものも多かった。
  アベランジェ、ヨハンソン、プラッター、クラウス・ヘンペル、あるいは電通の高橋氏など、出来る限り本人と会い、取材を重ねた。厄介だったのは、スポーツの世界はグローバル化しており、被取材者が世界中に散らばっていたことだ。
  ブラジル、スイス、フランス、スウェーデン、イタリア、ドイツ−−。
  ただ、わざわざ足を運んだだけの価値はあった。彼らの話す内容には、これまでまったく知られていないことも多かった。
  そうして聞けた話は、相互に補完出来た場合もあり、齟齬があったこともある。集めたデータを吟味しながら、今年になってようやく、三百枚を超える原稿に組み立てた。
  サッカーやスポーツビジネスに興味のある人には是非読んで欲しい。また、スポーツという巨大産業を巡る人物ノンフィクションとしても成立している。サッカーに興味のない人が読んでも読み応えのある本になっていると思う。


『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』表紙 ジーコジャパン11のブラジル流方程式

田崎健太 / 講談社プラスα文庫 648円 (税別)

 飛行機は次第に高度を下げていった。窓の下には青い海が広がっていた。海の中には無数のヨットが碇泊しているのが見える。海岸沿いには、高層ビルが立ち並んでおり、その奥に上に突き出た黒い奇石、ポン・ジ・アスーカルが聳え立っている。
  リオ・デ・ジャネイロに降りる時の風景は、世界の中で最も美しいものの一つといってもいいだろう。“シダージ・マラビーリャ”(美しい街)と称されるリオの芳しい香りが飛行機の分厚い硝子窓の向こうに感じられる。
  僕は、ジーコに話を聞くために、この美しい街を何度訪れたことだろう。

 彼に初めて会ったのは十年以上前になる。
 当時はまだ2002年のワールドカップの開催地を日本と韓国が争っていた。1980年代のバブル経済は弾けており、景気が下向きになる中で、1993年に始まったプロリーグは予想以上の成功だった。それまで日本のプロスポーツは、野球と相撲、公営競技だけだった。野球の一球一球の間こそが、日本人の好むもので、サッカーのラテン的な熱狂は日本人には合わない。そうしたり顔に話す人も多かったなか、Jリーグは成功を収め、観戦チケットはプラチナペーパーとなった。選手の年俸は急騰し、サッカーの回りだけは黄金色に染まっているようだった。
  02年にワールドカップが日本で開催されれば、もっと大きな商売の機会が訪れるだろう。バブル経済の余熱はサッカーに向いていた。
  当時男性総合週刊誌の編集者だった僕は、編集部に配属されると、「ルールを知っているから」という理由でサッカー担当となった。当時、その出版社がオフィシャルスポンサーをしていたこともあり、Jリーグ関係の連載を担当することになった。その連載が終了した後に、2002年ワールドカップ日本招致を応援するという趣旨の連載を始めることになった。
 それがジーコの連載だった。ジーコはブラジルで一度引退した後、日本の住友金属で選手として復活した。住友金属が鹿島アントラーズと発展し、ジーコはその中心選手であった。Jリーグが始まる前は二部リーグに所属していたチームをジーコは、初年度の第一ステージの優勝チームにまで引き上げた。そして、ジーコは二度目の引退後、ブラジルを拠点として、時折日本を往復していた。
 僕自身、小学生の時から少年団に入りサッカーをしていた。高校入学して、サッカー部の練習を見に行ったが、自分が始めていた音楽活動の方が楽しそうなのであっさりとサッカーを諦めた。そんな程度のものだったが、中学生の時に見た彼の姿は脳裏に焼き付いていた。
 特に82年のワールドカップのブラジル代表、ジーコ、ソクラテス、セレーゾ、ファルカンの四人は、特別の存在だった。その四人の中心人物であるジーコの話を長時間、それもブラジルで聞くことができるというのは魅力的な話だった。
  ラテンアメリカというのは、サッカー以外の魅力もあった。
  ガルシア・マルケスやバルガス・リョサ、オラシオ・キローガ、ジョルジ・アマードと言ったラテンアメリカの文学には、日本人では考えつかない物語が展開されていた。
 ペルーの作家バルガス・リョサは自伝的な要素の入った「密林の語り部」の中で主人公に、テレビを制作した経験があると語らせている。その中の一本がジーコのものであったとも書かれている。それがバルガス・リョサ本人の経験なのか確認はしていないが、ラテンアメリカを語る上で、サッカーという要素を今や外せないという証左にはなる。
 その二つの興味を持って、僕はリオ・デ・ジャネイロの地を踏み、それから十年以上、これまでに、延べ二十時間以上、ジーコの話を聞くことになったのだ。
 彼は取材に対して協力的であり、出来る限りの時間を使って説明をしようとしてくれた。ただ、彼は饒舌ではあるが、説明上手とは言いがたいと思った。分からないことを聞き返すと、そんなことがどうして聞くのだという表情をしたことが度々あった。
 僕は97年六月から休暇をとり、一年間サンパウロを中心にバックパックを背負って、ブラジル全土、そして南米大陸を旅して回った。言葉もそれなりに理解できるようになり、再びジーコの話を聞くようになった。
 また、ファルカン、ソクラテス、ジュニオールなどジーコの同時代の人間に話を聞く機会もあった。僕がジーコに聞き返していたことは、ジーコの説明不足ではなく、彼らが共通認識と考えていることも多かった。彼らは、個別の取材ではわざわざ話す必要のないという前提の上で話をしていた。その証拠に彼らの説明は、驚くほど同じだったのだ。
 言葉という「葉」の根本には、文化という幹がある。日本とブラジルの文化はかなり違っている。言葉を補わないと、かなりの部分が伝わらないのだということを痛感した。
 サッカーという競技はピッチの中の二十人がばらばらに動き、流動的で再現性が少ない。そこで戦術についてあまり深く語ったところで、議論のための議論に陥り、迷路に入ってしまう気がする。
  僕はジーコの中に、彼の母国ブラジルを見ている。彼の言葉を僕なりに補うことで、より理解されればと思っている。それによって彼を理解するだけでなく、自分たち日本人をも合わせ鏡のように見る一助になれば嬉しい。

<本書「はじめに」より>


『此処ではない、何処かへ』表紙 此処ではない、何処かへ 広山望の挑戦

田崎健太 / 幻冬舎 1400円 (税別)

 2001年3月。大統領選挙を取材するため、ペルーの首都リマにいた僕は、パラグアイのクラブチーム、セロ・ポルテーニョの一員としてリマに訪れていた広山選手と初めて会った。広山選手はこの年の一月からセロ・ポルテーニョにレンタル移籍していた。
 彼は大人しい印象のサッカー選手で、混沌とした南米大陸には不似合いだった。どうして南米行きを選んだのだろうと、僕は興味を持ったのだ。 その後、パラグアイ、ブラジル。新大陸から旧大陸へと舞台を移し、ポルトガル、フランス、二年半以上に渡って、彼のことを追いかけることになった。

 今や有能なサッカー選手にとって国外に出ていくことは当たり前のことで、そうした意味で彼は特別な存在ではない。
 ただ、彼の場合、国外に出た期間すべて順風満帆だったわけではない。パラグアイでは評価を得たが、その後は厳しい時間を過ごした。選手登録の関係、怪我でピッチに立つことのできなかった一年間もある。
 そもそも収入面から考えれば、パラグアイのクラブに移籍するのではなく、日本に留まったほうが良かったはずだった。選手としての価値を上げたければ、代表に入ることが一番の近道で、その可能性を高くするには鹿島や磐田といったクラブに移籍するという手もあった。十七才の時から各年代の代表に入っていた彼にとって有利な移籍先を探すことは困難ではなかったはずだ。そうすれば、数千万円の年俸を十年は得られることができた。
 しかし、彼は大幅な収入減を受け入れても、日本の外に踏み出すことを決心した。 自分の知らない世界が広がっている。それを体験しないまま、自分の人生が終わることを惜しいと思ったのだ。
 二年半の間には苦しい時もあったろうが、彼から一度も後悔の言葉を聞いたことはなかった。真っ当である人間が少なくなったと思わざるを得ない今の世の中で、彼はいつも背筋を伸ばして生きていたという印象がある。
 この本は、一人のサッカー選手が国外で成長した物語であるのはもちろんだが、それ以上に同時代に生きる一人の男の生き様を描いたつもりだ。
 その試みが成功しているかどうかは本を読んでくれた人の判断に任せるしかない。ただ、この本から、何かを感じ、力を得てくれる人が一人でもいてくれれば嬉しいと思っている。