週刊田崎

田崎 健太 Kenta Tazakimail

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。
著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克 英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)。最新刊は『球童 伊良部秀輝伝』(講談社)。
早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。『(株)Son-God-Cool』代表取締役社長として、2011年2月に後楽園ホールでのプロレス『安田忠男引退興行』をプロデュース、主催。愛車は、カワサキZ1。
twitter :@tazakikenta

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2014年5月27日

住んでみたい街というのがある。
暖かくて、海があって、人が動いている感じのする街が好きだ。そして食事が旨ければ申し分ない。例えば、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロ、フランスのマルセイユ、そして沖縄――。
琉球コラソンを取材したこともあり、何度もこの南の島を訪れるようになり、沢山の友人が出来た。数年前は単行本を書き上げるために、ウィークリーマンションを借りて滞在したこともある。今回の那覇滞在は割合に余裕があったこともあり、街中を歩き回った。いしかわじゅんさんのように、この街に仕事場を借りたいなと思った。とはいえ、現在の仕事のやり方では現実的ではない。もう少し先の話になるかな。
今日、東京に戻った。しばらくは慌ただしい日々が続く。あの那覇のゆったりとした空気がすでに懐かしい。

市場近くのアーケード。一帯はアーケードが繋がっており、まるで蟻の巣の中に潜り込んだような錯覚となる。

2014年5月24日

先週木曜日に札幌から東京に戻り、麻布十番の「とらくまもぐら」で会食。翌朝の飛行機で那覇へ。
「球童 伊良部秀輝伝」で沖縄は重要な場所である。伊良部さんはコザで生まれており、子どもの頃、何度も沖縄を訪れている。高校進学を考えたとき、沖縄水産高校から誘われたこともあった。そして、亡くなる前には沖縄への移住も検討していた程だ。
そのため、沖縄で何らかのイベントを開きたかった。
トークショーを行うことになった、ジュンク堂を紹介してくれたのは、漫画家のいしかわじゅんさんである。
かつてぼくはいしかわさんの連載を楽しみにしていた人間の一人だ。ミスターバイクでのコラム、週プレの漫画――。
小学館の社員時代、「パソコンポスト」というムックを出したことがある。週刊誌と平行して、実質、現場の人間は二人で一冊を作ったので、ひどく疲弊したことを覚えている。その分、ぼくには企画の裁量権があった。いしかわさんに原稿をお願いすることにしたのだ。
その後、ぼくが小学館を退社するときのパーティにも来て貰ったり、少し前、「安田忠男引退興行」の告知に力を貸して貰ったこともあった。ただ、仕事をしたのはこの一回のみ。
いしかわさんは那覇に仕事場を置き、月のうち一週間ほどは沖縄に滞在しているという。その滞在に合わせて、時々ジュンク堂でイベントをしていることは知っていた。そこで担当者を紹介してもらったのだ。今回もぼくのトークショーに合わせて来沖してくれた。
ツィッターやFacebookでやりとりをしているので、近い感じがしていたが、顔を合わせて話すのは久し振りだった。トークショーの後、いしかわさんの馴染みの店でお茶を飲み、話し込んだ。ゆったりとした沖縄の空気が心地良かった。

沖縄は梅雨だと聞いていた。着いた金曜日はぐずついた天気だったが、その後は雨が降らず、快晴が続いている。

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2014年5月19日

あらかじめ分かっていたことだったのだが、帰国してから怒濤の日々だった。
成田空港に着いたのが五月九日。昼過ぎから議員会館へ行き、中田宏さんと同行取材。そのまま修理に出していたオートバイを引き取りに世田谷通りのSCMへ。時差ボケで眠くて仕方がない…。翌朝は五時に起きて、天王洲のinterFMのスタジオに行き、「GREENJACKET」に出演。
翌週月曜日に、ニッポン放送の「垣花正 あなたとハッピー」、木曜日はTBSラジオの「荒川強啓 デイキャッチ」出演。木曜日はTBSから虎ノ門のリトルトーキョーに直行。『球童 伊良部秀輝伝』の出版パーティ。金曜日は小学館「週刊ポスト」の著者インタビュー。土曜日は再び「GREENJACKET」に月1のレギュラー電話出演。翌日曜日は下北沢のB&Bで『球童』発売記念で元ロッテ・マリーンズの前田幸長さんとトークライブ。
とにかく面白い! このやんちゃで明るいところを伊良部さんが気に入ったのは良く分かる。伊良部さんの他、金田さん、広岡さん、星野さん、牛島さん――伊良部さんや前田さんは強烈な個性のある人たちに囲まれていたのだと改めて感じた。
トークライブの最後、前田さんは「ラブさんは夢にも出てこないんです。ぼくが子どもたちに野球を教えたりして、野球に関わっているので、羨ましくて出てこれないのかなぁ」とおっしゃった。アスリートとして成功するのは一握り。辞めた後、その競技と関わりながら充実したときを過ごすことのはさらに難しい。

こうした日々の合間にも、中田カウス師匠と二晩続けてお酒をご一緒させて頂いたり、原稿執筆、次の本の取材も進めている。
しかし、どんなに忙しくても遊びは欠かせない。
19日は朝五時起きで、秩父までSCMの伊藤君たちとツーリングに出かけた。昼過ぎにみんなと別れて急いで帰宅。荷物をまとめて羽田空港から札幌へ。新千歳空港から札幌駅に移動してすぐに取材。文字通り、目が回りそうな日々が続いている。

定峰峠にて。SCMで電気系をリフレッシュしてもらったZ1は快調そのもの。もっと遠くへ行きたいという気持ちが湧いてくる。

2014年5月7日

この国で仕事をするのに必要なのは、怒らないこと、そして諦めないこと、そしてすぐに別案を考えることである。
今回もぼくの友人たちが粘ってくれ、当初予定していたのとは少し形は違うが、それなりの取材が出来た。こうした手助けをしてくれる友人たちに感謝である。うんざりとすることもあるが、ぼくが二〇年近くこの国に惹きつけられているのは、人の優しさがあるからだ。
とはいえ…。
ある人間に取材を頼んでいたのだが、なかなか連絡がとれなかった。散々引き延ばされた揚げ句、法外な謝礼を要求された。ぼくは基本的には取材謝礼を払わない。ジーコだろうが、ソクラテスだろうが、カルロス・アルベルト・トーレスだろうが、その手法でやってきた。それがジャーナリズムでは当然だからだ。
ブラジルでは日本以上にその意識が徹底している。彼らが金を要求するのは日本のメディアに対してだけだ(ブラジルのメディアに金を要求すれば、こてんぱんに叩かれるだろう)。
もちろんスポーツとビジネスは密接に関係がある。日本の一部のアスリートのように取材が集中すれば、それを本人が取捨選択、判断するのはかなり難しい。選手の保護に、事務所のような存在が必要になることは理解している。事務所には取材対応は「仕事」である。取材謝礼が発生するのは仕方がない。しかし――。それにも限度がある。

リベルダージに出現したゴジラ。南半球にある、サンパウロはもう秋の空ですぐに日が暮れる。

2014年5月4日

アポが入ったと思うと、延期になり、キャンセルになる――。また、一帯の電話回線が落ちているのか、クラブの代表電話さえも繋がらない――。
全く取材が入らない。
ブラジル滞在中、二度目の連休がやってきた。この日、サンパウロでは世界最大のゲイカーニバルが開催された。このカーニバルには、以前から興味があったが、なかなか日程が合わなかった。今回、ようやく見に行くことが出来た。圧巻である。アポが入らず、鬱々していた気分が晴れた。やはり、ブラジルは面白い国だ。