週刊田崎

田崎 健太 Kenta Tazakimail

1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克 英治出版)。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。創作集団『(株)Son-God-Cool』代表取締役社長。愛車は、カワサキZ1。

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201005

2010年5月31日

昨年12月に『週刊現代』に書いた勝新太郎さんの記事の終わりは、おでん屋『田賀』の話で終わっている。
ぼくが勝さんの担当をしていたとき、しょっちゅう六本木の田賀にお邪魔して酒を飲んでいた。数年前、その場所を通ってみたが店はなかった。インターネットで検索しても、出てこないので潰れたと勝手に思い込み、原稿の中で田賀は潰れたと書いた。
週刊現代が出たあと、田賀のママから編集部に電話があり、赤坂に移って営業していることを知った。それからちょくちょく顔を出すようになった。

田賀のマスターは、元々は東京キューバンボーイズでサックスを吹いていた。歌手の水原弘さんと兄弟分の付き合いをしていたことで、勝さんと一度だけ飲むことがあった。
その後、マスターはサックスをやめ、音楽の世界から足を洗った。次に勝さんと会ったのは、水原さんの葬式だった。勝さんはマスターに優しい声を掛けた。一度しか会っていないのに、覚えてくれて いたのだと嬉しく思った。
また、それから時間がしばらく過ぎる。
マスターは、六本木の裏通りで、田賀という店を開いていた。偶然その店に入ったのが、勝プロの酒井修さんだった。翌日、勝さんは店に現れた。
「すまないな、こんな近くで店をやっていながら、気がつかないで」
気がつかないのも当たり前だ。知らせていないのだからとマスターは恐縮した。
それから勝さんはしょっちゅう店に現れるようになった。無口だったマスターは、厨房に籠もりきりで、ごく稀にしか客席に顔を出さなかった。
たまに、顔を出すと、勝さんはマスターの料理を褒めた。そして目を合わせてにっこりするのだ。
九十七年六月、勝さんは亡くなった。
亡くなった後も、夕方になると勝さんが扉を開ける気がした。店には勝さんの残像が残っていた。マ スターも常連客も、勝さんの不在がだんだんと苦しくなってきた。結局、店を閉めて同じ六本木の別 の場所に移転することにした。
現在の赤坂の店になったのは一年ほど前のことだという。
勝さんの周りはこうした人が多い。
ぼくは、週刊現代に書いたように、勝手に弟子になった「弟子」(かっこつきの弟子)だが、本当に 最後の弟子≠セった小林太樹さんも、勝さんが亡くなった後、一年以上何も手がつかなかったという。心の中に抱えている勝新太郎の像は重いのだ。
その勝さんが命を削りながら作ったのが座頭市だった。
先週から『座頭市thelast』が公開となったので、見に行くことにした。
平日の午後だったこともあるだろう、客席は勝さんのファン世代というべき、年配の人が目立った。
映画は??。
脇役は豪華だ。原田芳雄さん、中村勘三郎さん、仲代達也さん、寺島進さん。セットのディティールもいい。ただ、肝心の主役が……。
かつて北野武さんが座頭市を監督主演したとき、過去の座頭市の作品を全て見て、「これは自分にはできない」と全て無視したという。同じ江戸っ子として、勝さんの才能を深く理解しているタケシさんらしい話だ。賛否両論あろうが、あれは作品として成立していた。
一方、『座頭市thelast』の主役は、耳を動かしたりする仕草、科白回しを中途半端に真似ていた。
それは、学芸会の芝居のようで、スマスマの一コーナーで物まねをしているようにしか見えなかった 。

2010年5月20日

最近はツイッター(http://twitter.com/tazakikenta)の方に書き込むばかりで、こちらを更新していなかった。気がつくと、5月も後半に入っている。
連休中は、今秋発売の単行本の準備と、大学の授業のために学生の提出した原稿を読んでいた。
ぼくが早稲田大学で担当している、スポーツジャーナリズム論では、毎月誰かに取材させて原稿を書かせている。ぼくを含めて色んな人が教壇に立つが、自分で取材して書くことで、見えてくるものがあると思うからだ。
さすがに百人を越える原稿を読むのは時間が掛かる。4月の課題は、これまでぼくが担当した中で、同じ時期では、一番レベルが高かった。授業で取り上げる、十本ほどの優秀原稿を選ぶのが大変だった。

連休明けの8日には、味スタまでヴェルディ対ザスパの試合へ。
天気がいいので、愛車カワサキZ1で甲州街道をひたすら西へ。気持ちがいい。
試合は前半は両チーム、全く見るところがなし。両チームとも、中盤で誰も試合が作れない。後半あたま、ザスパは広山が良い形でサイドに飛び出してクロスボールを上げた。しかし、残念ながらゴールならず。
サッカーとは面白いもので、ザスパのミスからヴェルディがゴールを挙げると、一方的な試合となった。ヴェルディの若手が、うまくスペースを使い出して、2点目。
試合終了後、広山と話をして、都内に戻って打合せ、のはずだった。
ところが。
待ち合わせ時間に間に合わせようと急いでいたのか、チョークを上げてエンジンを掛けたまま、戻すのを忘れていた。アクセルを開けると、プスンと音がしてエンジンが止まった。
(プラグが被った) 、と焦りながら、セルを何回か回していると、元々充電不足だったバッテリーが切れた。キックペダルを踏み込んでも、エンジンは動く気配がない。
そこはまだ運があった。たまたまオートバイを止めていたのが、味スタの前にあるハレーショップのすぐそばだった。
閉店準備をしているショップに入り、工具を貸してくれと頼んだ。すると、工具は貸せないが、裏側の工場に持って行ってくれと言う。
エンジニアの方が、大型バッテリーで強制的にエンジンを掛けてくれた。
ありがたい。

という感じの日々を送っていた。
仕事関係では、今週月曜日発売の『週刊ポスト』にジーコインタビュー掲載。
また、今週から、『日刊ゲンダイ 』で、『 南アW杯/[田崎健太が見た聞いた歩いた 日本代表どこまでヤルか!?』という連載が始まっている。