週刊田崎

田崎 健太 Kenta Tazakimail

1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克 英治出版)。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。創作集団『(株)Son-God-Cool』代表取締役社長。愛車は、カワサキZ1。

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200912

2009年12月25日

今日、来年2月発売の『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)の再校を戻した。
今週あたまに、3月発売の『辺境遊記(仮タイトル)』(絵・下田昌克 英治出版)もテキスト部分の入稿はほぼ終えていた。とりあえず今年の仕事納めだ(事務処理は残っているが)。
ぼくが小学館を辞めたのが1999年12月だったので、丁度10年になると思うと感慨深い。本当にあっという間だった。
今年に入って、雑誌メデイアがきつくなっているのは、肌に感じる。組織に守られていない人間は、 冷たい風がもろに当たる。
それでも頭を上げて、文章を書いていくしかない。
来年はこの二冊に加えて、もう一冊は出すつもりだ。
2010年がいい年になりますように。

ダラムサラ

年賀状の未使用バージョン。使用バージョンは年明けにでも。

2009年12月20日

今晩、無事に東京に戻ってきた。新天地で、美味なお粥を食べたあと、タクシーで空港へ。
車の中で、まるで映画のように、色んなことが起こった上海滞在でしたねと話していると――。
車が空港近くで、急に揺れ出した。どうしたのかと思っていると、しばらく走って中央分離帯で停まった。運転手と一緒に外に出ると、右後輪のタイヤがバーストしていた…。運転手を手伝って、ジャ ッキで上げてタイヤ交換。なんとか空港に到着することができた。
映画のエンドロールに入ってから、トラブルが起こるような感じだね、とピッピさんと顔を見合わせて笑った。勝さんが天国でぼくたちを操っているかのような、嵐の四日間だった。

上海

今日の上海は寒すぎる……。

2009年12月18日

昨晩、上海に到着。こちらは寒く、空港の建物を出ると身体の芯まで凍えた。
先日の「週刊現代」で協力してもらった、アンディさんのレストランオープンに合わせて、ピッピさんと一緒に上海に行くことになった。桑名正博さんも上海に入っており、勝さんの物まねをしながらみんなで飲むことになった。笑いの絶えない夜だった。
そして、今日はレストランのパーティと、桑名さんのミニライブ。昨晩、桑名さんもピアノの小島良喜さんも相当飲んでいたはずなのに、素晴らしい演奏。さすがプロである。桑名さんのギターとボーカルはもちろん、クワタバンド等のバックを務めていた小島さんのキーボードはグルービーで最高だ った。 今夜も長い夜になることは間違いない――。

上海

リハーサルでの桑名さん

上海

奥に写っているのは、謎の中国人ではなく、小島さん。

2009年12月11日

ここ二ヶ月ほど、原稿書きの合間に、故勝新太郎さんのDVDとビデオを見続けていた。とくに「警視K」についてはヤフオクで全巻揃え、見続けていた。
警視Kは、オンエアーしたとき、出演者の科白が聞き取りづらいと抗議が殺到したという。確かに聞き取りずらい。ただ、実際にぼくたちは、生活する中で、テレビドラマの俳優が話すようにしっかりとした滑舌で、筋の通った日本語を話すわけではない。その意味では、本当に自然な科白なのだ。
映像も凝っている。見れば見るほど、嵌ってしまう面白さだ。
先日の上海出張もこの記事のための取材だった。勝さんの元マネージャーのアンディ松本さんが上海に住んでいるのだ。アンディさん、警視Kに出演していたピッピさん、そして桑名さん。みんなぼくのことを暖かく迎えてくれた。勝さんがぼくを導いてくれた気がする。
みんな不器用で決して上手く世渡りをしていないところが、敢えて言えば、共通点だろうか。勝さんのDNAはそういう形でも受け継がれているようだ。
ぼくもそうだ。
今月発売の「スポーツイベント ハンドボール」で琉球コラソンの連載が終わる。
コラソンのことでも、ここ一週間ほど動かなくてはならなかった。詳しくは本誌を読んでもらうと分かる。
お金にもならないことに時間と労力を費やすことは、端から見ていれば変わり者に映るかもしれない。ただ、必死でやっている選手たちを助けたいという気持ち、それには忠実でありたい。

ピッピさん

ピッピさんの事務所にて。

2009年12月7日

昨日は、ドームホテルで岸祐二 (http://ameblo.jp/yuji-kishi/) と 菊地美香さん
(http://blog.oricon.co.jp/kikuchimika/) の結婚式パーティに出席した。
祐二は、ぼくが大学生時代に一緒にバーで働いていた。カーレンジャーのレッド役を演じ、美香さんはデカレンジャーのピンク役。「戦隊婚」とスポーツ紙に書かれていたのを見て、結婚を知った。
祐二と知り合ったのは、ぼくが二十一才で、向こうは十九才……。もう二〇年も前だと思うと、目眩がする。大きな会場できちんと話ができなかったので、年明けにでもゆっくりと酒を飲んでくるつもりだ。

そして今日は、オートバイで写真家の操上和美さんの事務所へ。白金にある素敵な事務所だった。
操上さんとは初対面。わざわざ訪ねていったのは、勝新太郎さんの写真を借りるためだった。勝さんは操上さんの写真を気に入っていた。だから来週月曜日、十四日発売の「週刊現代」で使わせてもらいたいと思ったのだ。
この号で、ぼくは勝さんのことを書いている。
ぼくは週刊誌で働いていたときに、勝新太郎さんの担当をしていたことは何回か書いた。
ぼくの人生に大きな影響を与えた人である。
勝さんの晩年、数年間であるが、親しくさせてもらった一人であると思う。
出版社を退社したとき、勝さんを書かないかと声を掛けられたことがあった。ぼくが書く気になれなかったのは、勝新太郎という不世出の役者を書く力が自分にないことを自覚していたからだ。勝さんの人間関係は濃い。ほかに思い入れが強い人がいるのに、親しかったと声高に騒ぎ立てるのも、嫌だったこともある。
今年六月は、勝さんの十三回忌だった。しかし、それを報じるメディアはほとんどなかった。
そのすぐ後に裕次郎さんの二十三回忌は、ぼくの自宅に近い、国立競技場で派手に行われた。ぼくは参列する人を横目に寂しく思っていた。勝さんが裕次郎さんに劣っているはずがない。
そして、ぼくは勝さんを書く気になった。勝さんを書くことができる力がついたわけではなく、誰かが書けば、ぼくはどんなものでも悔しく思うだろう。
ぼくはあの人の「最後の弟子」だったのだ。
とりあえず、6ページ。どうしてぼくが「弟子」なのか、この原稿を読んでもらえれば分かる。

勝新太郎

これは映画のポスター。操上さんの迫力ある写真は誌面で。