週刊田崎

田崎 健太 Kenta Tazakimail

1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克 英治出版)。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。創作集団『(株)Son-God-Cool』代表取締役社長。愛車は、カワサキZ1。

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200906

2009年6月12日

昨日の昼過ぎには成田に戻っているはずだった。
しかし−−。
モスクワで飛行機に乗ったのだが、整備不良で全ての乗客が降ろされた。空港係員は、ロシア語と中国語しか話さず、何が起こったかさっぱり分からなかった。
北京経由で成田に戻る便を予約していた。北京の待ち時間は約2時間。 予定より2時間を過ぎても再び搭乗する気配はなかった。金曜日の午前中は早稲田大学で授業をしなければならない。授業で配布する資料を搭乗口で慌てて作り、インターネットで送った。
しかし、肝心の僕は間に合うのだろうか。
不安になったが、こういう時は焦っても仕方がない。
搭乗口に近い、カフェで味の薄いサンドイッチを胃袋に流し込んでいると、ジャージを着た男たちと仲良くなった。スケートのショートトラックのロシア・ジュニア代表だった。彼らの記念撮影を手伝っているうちに、搭乗のアナウンスが聞こえた。
結局、飛行機に乗ったのは、定刻より六時間以上過ぎていた。北京に着くと、代替便が用意されており、アップグレードしてくれた。古い便でありがたみは薄かったが、それでも多少楽になった。
成田に着いたのは昨晩遅く、モスクワを出て二十四時間以上経っていた。

そして、今日は授業。
まずはモスクワで撮った映像を見て貰った。僕と同じ国際法島田ゼミOBである、リアルフリートの早川さんの好意で、amadanaのSALをモニターとして使わせてもらっている。
小型なので、大げさでない映像を撮ることができた。いずれどこかにアップロードしようと思っている。

モスクワ

モスクワの地下鉄の駅にて。雰囲気のある駅から、素っ気ない駅まで、統一感がないのが面白い。

2009年6月10日

昨日、取材の後、食事に出かけた。注文に勘違いがあったこともあり、ランチにも関わらずとてつもない金額になってしまった。ロシアの物価恐るべし。たぶんこの「出来事」は、いずれ『国境なきフ ットボール』あたりで書くことになると思う。
ホテルの中のレストランは高い、不味い、サービス悪いの三拍子が揃っているので、夜はホテルの門のすぐ外にあるバールでビールを飲むことにした。
この国は夜十時でもまだ明るい。気持ち良くビールを飲んでいると、突然雨が降り出してきた。店にいた人間は足止めされることになる。
狭い空間に、閉じこめられていると不思議と周りの人間に親近感を抱くようになる。
僕の近くで一人で飲んでいた、ローラースケートを履いた男と自然に話が始まった。
「困ったことになった。雨が降ってしまうと滑りやすくなってしまい家に帰れないよ」
彼は、カムチャッカ出身でIT企業に勤めていた。毎日二時間かけてローラースケートで通っているのだという。
彼の英語はかなり怪しく、何回も「二時間?」と聞き返したのだが、頷いた。同じカムチャッカ出身の友人に電話すると車で迎えに来てくれるという。
周りの人間もこちらに興味があったのだろう、次第に話しかけてきた。
ロシア人は総じてしかめ面で愛想がないと思っていたのだが、実際に話してみるとまた違っていた。
ロシア語が話せれば、この国も楽しくなるだろうと思った。

モスクワ

2009年6月8日

昨晩、ホテルで食べた食事は、不味い上に値段が高かった。サービスは疎かで、英語は通じない。この国で生活するとストレスが溜まりそうだった。
幸い、天気は回復し、今日は快晴。
今回の取材内容は掲載が後になるので、今は伏せておく。無口なロシアで、人の優しさと繋がりの大切さを改めて感じた。非常に実りのある、いい取材ができたと思う。
取材後、中心地まで送ってもらい散歩。悪趣味ぎりぎりの色遣い。この国はやはり特殊である。

モスクワ

モスクワ

この国で唯一といってもいい楽しみは、道を行く女性が美しいことだ。鼻筋が通った、整った顔。伸びやかな脚を強調するようなミニスカートとハイヒール、豊かな谷間を強調したタイトな原色系の服 。
華の命は短いのかもしれないが、不思議な魅力のある女性が多い。

2009年6月7日

急遽、モスクワ出張が決まった。
朝の九時に成田を出発。北京を経由し、モスクワに到着したのは、夕方六時になろうとしていた。
飛行機を降りると、入国審査場は人で埋まっていた。中華系の航空会社で来たので、客は中国人が多いようだった。日本ならばきちんと列を作って並ばせるのだろうが、ロシアはかなり適当であるようだった。列は乱れ、誰がどこに並んでいるのか分からなかった。
僕の並んだ列は最悪の選択だった。
一人づつ応対しているというのに、中国人は斜めに列を作り出し、4人ほどが横に並んでいる状態になっていた。
開いていないカウンターがあったのだが、手持ちぶさたのロシア人係官は自分の仕事ではないという風に、知らぬ顔だった。
しばらくすると、ロシア人専用の入国カウンターが空き、そちらに移ることにした。
しかし−−。
後続の飛行機が着くと、女性の係官は高圧的な態度で「ここはロシア人だけ」と急に追い払った。
しかし、「外国人専用」のはずなのに、突然、太ったロシア人女性が三人子供を沢山連れて、隣の列に割り込んで、待っていたフランス人と揉めていた。彼女が隣の列に目をつけてくれたのは不幸中の 幸いだった。
中国人の無秩序さと、ロシア人の硬直したシステムに翻弄される二十一世紀を象徴しているようだった。
結局、入国した頃には、7時を回っていた。
空港を出ると雨。少々、気が重くなるロシア初日だった。

モスクワ

空港の両替窓口は、ブラインドが半分下りていて、引き出しが無言のまま開いた。治安が悪いのか、人と話をしたくないのか、その両方なのか。
かつて、メキシコを旅した時、バスの時間が迫っていたので急いで切符を買おうとしたことがあった。窓口の年季のはいった婦人は冗談交じりに「ブエノスディアス(おはよう)がないわよ」と叱られた ことを思い出した。
空港から乗った、タクシーの運転手も一切口を利かなかった。下りる時に英語が全くできないことに気がついたが、無言の理由は英語なのかどうかは分からない。