週刊田崎

田崎 健太 Kenta Tazakimail

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克 英治出版)。 12月に『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)を上梓。早稲田大学講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 招聘研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。創作集団『(株)Son-God-Cool』代表取締役社長。愛車は、カワサキZ1。twitter :@tazakikenta

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201105

2011年8月17日

ここのところ、ぼくの本『ワールドカップに群がる男たち』を読んだという人に続けて会い、続編を書かないのかと尋ねられた。
ぼくがこの本を書きたいと思ったのは、後書きに書いたように、FIFAのアベランジェやUEFAのヨハンソン、電通の高橋さんなど、魅力的で悪の匂いをぷんぷんさせた男たちがいたからだった(ブラジル最古、もしかして世界最古の代理人かもしれないエリアス・ザクーに取材したのはぼくだけだろう)。残念ながら、サッカー界にそういう香りのする人間が少なくなった。
例えば、広告代理店でサッカーの担当をしているだとか、冠スポンサーでスポーツビジネスを担当していると鼻高々に言われても、所詮はサラリーマンで、たまたまたその部署に配属されただけでしょと思ってしまう。
電通の高橋さんはサラリーマンではあったが、良くも悪くも超越していた。彼がいなければ、ISLは出来なかっただろうし、2002年のW杯もなかったかもしれない。高橋さんに限らず、少し前のサッカー界にはそうした取り替え≠フ利かない人が沢山いた。だから、ぼくは面白いと思った。日本のサッカーはなでしこが世界タイトルを獲得し、宇佐美のような才能を生み出し、安定成長期に入っている。誰がやってもそれなりにうまく行くだろう。

人は影や闇に惹きつけられるものだ。
勝新太郎さんの評伝をまとめるにあたって、昔のメモを見直してみると、勝さんが面白いことを言っていることに気がついた。 勝プロに行くと、勝さんはいつもワイドショーやドラマの再放送をせわしなくチャンネルを変えながら見ていた。ドラマを見ながら、薄っぺらい役者が増えたと嘆いていた。 「影を持っている人間だからこそ、光り輝くものが出てくる。影から出てくるそいつ独自の生き方、光に人は憧れるんだ」 このメモを見た時、伊良部秀輝さんを思い出した。
ここにも書いたように、ぼくは5月に彼と会っている。
結果的には、それが生前最後のインタビューになってしまった。大宅文庫で検索した時、彼のインタビューはほとんどなかった。プライベートにまで踏み込んで色々と話したのは、最初で最後だったかもしれない。

『SPA!』の原稿の中で、彼はぼくに「アメリカに行くまで自分の父親がアメリカ人とは知らなかった」と言った。 これは本当でないかもしれない。ただ、亡くなった後に週刊文春が書いたように(これまで何度も同じことが書かれているが)、アメリカに行った最大の理由が父親を探すためというのにも首をひねってしまう。 彼が自分の父親を知りたいと思ってアメリカに行ったにしては、その後がない。伊良部さんは、父親のことについて淡々とした調子で話した。「年に二回、誕生日とクリスマスぐらいで連絡を入れるぐらいです。それはワイフがやってます」というのは嘘ではないだろう。

彼は野球選手として純粋に最高峰の舞台に立ちたかった。それだけのことだ。自分の父親がアメリカ人であったことを知らなかった。彼がそう思って欲しいのならば、ぼくは信じたい。それが彼のような才能ある人間に対する敬意だと思っている。 伊良部秀輝は影を持っていた。そして、影から光を発していた。そうした人間がこの世からいなくなったことが惜しい。薄っぺらくて、プラスティックのような手触りの人間が増えている世の中で、彼に会えたことを光栄に思う。

伊良部さんを撮影したベニスビーチ。太陽の光を眩しそうに手で遮り、青い空に対して背中を丸めるように歩く彼の姿が印象的だった。