週刊田崎

田崎 健太 Kenta Tazakimail

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。
著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克 英治出版)。 最新刊は『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)。
早稲田大学講師として『スポーツジャーナリズム論』『実践スポーツジャーナリズム演習』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。『(株)Son-God-Cool』代表取締役社長。愛車は、カワサキZ1。twitter :@tazakikenta

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201105

2012年1月26日

二泊の関西出張より帰京した。
火曜日の朝に東京を出た時は、東京は雪だった。取材のため京都で下りた。日が暮れて、祇園に向かうタクシーの中で、対向車のヘッドライトに細かな雪が照らされているのが見えた。春節の休みのせいなのか、花見小路は中国人で溢れていた。
翌日は朝から大阪市役所へ。大阪市役所は、ゆったりとした作りで、応接室のある階などは、廊下でもう一部屋出来そうなぐらいの幅がある。まるで中国のようだ。恐らく、この建物を作った人、働いている人たちは、中国の官僚のようだったのだろう。橋下市長になってから、のんびり歩いていた市役所職員が廊下を小走りになったという。あり得る話だ。
今回の取材は、来月か再来月発売の月刊誌に掲載予定。詳細は後ほど。

百円餃子で知られる大阪飯店の天津丼。大将はフライパンを握りながら、「天津丼、味付けはどうします? 薄味か濃い味?」。ぼくが「じゃ、濃い味で」と答えると、「ええっ」と素っ頓狂な声をあげた。「薄口でやってしもた…」「じゃあ薄味でいいです」。決めているのならば、最初から聞かなかったらええやんと心の中で突っ込む。大阪はオモロイ。
この店は、寿恵卵という卵を使っていた。この卵は、黄身に数本楊枝を差しても崩れない。天津飯は卵の濃い味がして美味しかったが、味付けは濃い目の方が良かったかも。

今朝の大阪は晴れ。新幹線に乗ると、米原付近が雪で遅れるというアナウンスが入った。京都を出てしばらくすると、車内の気温がぐっと下がり、外には雪景色が拡がっていた。

2012年01月18日

慌ただしい日々が始まっている。
先週火曜日は、有楽町のニッポン放送に行き、「上柳昌彦ごごバン」に出演。
番組の中でも話したように、上柳さんとの付き合いは、小学館の社員時代に遡る。
当時、上柳さんはテリー伊藤さんとニッポン放送の昼の番組のパーソナリティをしていた。テリーさんは、ぼくとしばしば仕事をしていた。
ニッポン放送では、テリーさんが宮崎キャンプ中の長嶋茂雄ジャイアンツ監督(当時)のインタビューをすることになっており、そのスケジュールに相乗りして、テリーさんと巨人の選手に直撃取材するという企画をぼくは考えたのだ。
球場でガルベスにスペイン語でぼくが話しかけ、簡単に話を聞いた。ガルベスは暴れん坊の印象があったが、実際は紳士的で物静かな男だった。
小学館を退社後、たびたび上柳さんとテリーさんの番組に出演させてもらった。中学から高校時代、ぼくはラジオが大好きだった。KBS京都やMBSの番組に葉書を送って、読まれたこともあった。ラジオで話すことは、楽しい仕事だった。
今回もまた、上柳さんのリードで『偶然完全 勝新太郎伝』、勝新太郎さんとの担当編集者時代の話をしてきた。

翌水曜日は「PRESIDENT」の書評の取材を受けた。その後、静岡出張に出かけ、土曜日には、元日本代表キャプテン、東俊介によるハンドボール体験会。早稲田大学のハンドボール部、同好会のミュンヘンの協力を得た、楽しい会だった。
ところが――。
この日は元々、月に一回のフットサルの予定が入っていた。東伏見の早稲田大学の体育館から、急いで田無のフットサル場へ移動。向かう途中の西武線から息が苦しくて仕方がなかった。最後にやった7分間のハンドボールのゲームで体力を消耗していた。普段使わない背筋や肩の筋肉を使ったこともあったろう、身体は重く、全身に疲れがあった。
元々右足の甲、外側の筋肉に違和感があった。フットサルの前、その痛みがひどくなっていた。当然、動きは悪く、ここ最近で最悪の出来だった。
40才を超えて、無理してはいけないことを再確認した。
とはいえ、フットサル終了後、朝まで飲んでしまったのだが…。

日本を代表するポストプレーヤー、湧永の山口と東(大崎電気)の現役時代の写真。ハンドボールは動きが速い上に,室内なので写真を撮るのが難しかったことを思い出す。

2011年01月08日

昨日は、今年最初の授業だった。
早いもので、後期の授業は残り二回。そろそろ仕上げの時期である。

法学部の前を通りかかったら、「国際法 島田征夫教授 最終授業」という立て看板があった。1月21日がぼくの恩師の現役最後の授業になる。自分の授業の時間と重なっているので、見学できないが、研究室には顔を出すつもりをしている。
当時、国際法島田ゼミは人気があった。
入るには成績が重視されると言われていたが、ぼくは「優」が体育以外なかった(結局五年間で優は七個程度…)。白人の演奏するブルースという全く法律に関係ない話を、異文化の融合と強引に結びつけて小論文を書いた思い出がある。
「どうせ留年するんだから、もう1年来い」と言われ、五年生まで三年間もゼミに所属した。もっとも、法律の苦手なぼくの活躍の場は、授業後の飲み会が主だったが。
数年後――
小学館に勤務していた97年、ペルーの大使公邸事件の特派員としてぼくはリマに入ることになった。多くの人員を囲い込むことのできるテレビ局や通信社と違い、たった一人の特派員である。
この時、ペルーの法務大臣に取材する機会があった。
大使公邸に立てこもっているテロリストを、特例でキューバに亡命させるという案が出ていた。法務大臣は、政治亡命に詳しい弁護士だった。
まさに、国際法である――。
国際電話で島田先生に電話して、政治亡命の要件、問題点、聞くべきことを教えて貰うことにした。かなり基礎的なことも、ぼくはすっかり忘れていた。「学生の時にもう少し勉強しておけよ」と先生からは叱られた。 インタビューは、時間を区切って各社の記者が次々と聞く形になっていた。新聞、テレビが優先され、雑誌は最後に回された。ぼくの番に回ってきた時には、法務大臣は少々疲れ気味だった。
先生に教わった問題点をぼくは次々と指摘した。
すると「あなたのように、きちんと勉強している記者は初めてだ」と驚かれた。
全く、恩師はありがたいものである。
     

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【お知らせ】
☆現在発売中『BUBKA』2月号の「タレント本 オブ・ザ・イヤー」で第一位に選んで頂きました。選者は、書評家の吉田豪さん。
☆『ZAITEN』の「担当編集者自薦BookReview」、『DIME』で「偶然完全 勝新太郎伝」が紹介されています。

97年、ペルー大使公邸事件の写真。今から15年も前になる……。

2012年01月01日