週刊田崎

田崎 健太 Kenta Tazakimail

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。
著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克 英治出版)。 最新刊は『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)。
早稲田大学講師として『スポーツジャーナリズム論』『実践スポーツジャーナリズム演習』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。『(株)Son-God-Cool』代表取締役社長。愛車は、カワサキZ1。twitter :@tazakikenta

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2012年07月27日

火曜日からロサンゼルスに来ている。三月のブラジル出張は、ダラス経由だったので、ロスには降りなかった。ほぼ一年ぶりのロスになる。
出発した日、東京は曇っていて空には靄が掛かっているようだった。湿度が高く、歩いていると汗が吹き出てくる。狭い機内の中に押し込まれると、腰の痛みがまた再発するのではないかと思っていたが、アップグレードしてもらい、本当に身体は楽になった。
ロスに到着すると、青い空が広がっていた。湿気はなく、日陰は涼しいぐらいだ。ここに住んでしまうと夏の東京には戻りたくなくなるという気持ちは良く分かる。
ロスで友人たちとの食事や打合せ、水曜日にはサンディエゴまで足を伸ばし、Sho Funai君の裁判を傍聴してきた。飲酒&マリファナで未成年が人をひき殺し、逃げしても、アメリカでは無罪になる可能性があるという恐ろしさ。
そもそも未成年が酒を飲んでいるだけで、法律に抵触するはず。朝五時に泥酔して車に乗り、人をはねてフロントガラスが粉々になっているというのに、「毛布を轢いたかと思った」と言い切る厚顔無恥さに苛立った。彼女の弁護士が「彼は道の真ん中を歩いていて、彼女がはねなくとも誰かにはねられただろう」と言い切る、冷酷さ。ショウ君は、酒を飲むのが分かっているので、自宅に車を置いて飲みに行っていたのだ。 知的で優しい父親の船井さんの尋問を聞いていると、その無念さが伝わって涙が出そうになった。判決は翌日に持ち越され、一年の判決となった。軽すぎる。彼女はまた同じようなことを繰り返すだろう。同じような被害者が出ないことを祈るしかない。
そして、今日は故伊良部秀輝さんが亡くなってから一年――。早いものだ。今晩、飛行機を二つ乗り継いで、東海岸に向かう。


2012年07月22日

あれから一週間になる。
先週日曜日、『GTO』等で知られる漫画家の藤沢とおるさんの結婚パーティに出席していた時のことだ。久し振りに会う小学館時代の同期と話をしていると、電話が鳴った。発信先は中田カウス師匠。慌てて電話を取ると、「知っているかもしれないけれど、桑名さんが脳幹出血で倒れたよ」という。
ぼくが桑名さんと親しかったことを知っていたので、わざわざ教えてくれたのだ。最初は悪い冗談かと思った。しかし、どうも本当のようだった。しばらくして、パーティの司会をしていた北野誠さんのところに行くと、やはり連絡が入っていた。大丈夫かなと心配をしたが、ぼくらにはどうしょうもない。折角のパーティにいながら、頭の奥が晴れない気分だった。
『偶然完全 勝新太郎伝』を書く際、最初に相談したのが桑名さんだった。
彼の軽井沢の自宅で話を聞き、そのまま駅前の寿司屋へ行った。ぼくが勝さんと一緒にいた時期、桑名さんも勝さんと良く飲んでいた。そのため、共通の話題が沢山あった。寿司屋のカウンターで、桑名さんは勝さんの物真似をした。勝さんが『Sunny』を歌うところなど本当に似ていて、ぼくは腹を抱えて笑ったものだった。
楽しい時間は不思議な程、あっという間に過ぎるものだ。結局、最終の新幹線を逃して、桑名さんの愛犬に囲まれながら自宅に泊めて貰うことになった。
その後も何度も酒を飲み、色んな話を聞かせて貰った。出版に合わせて、『週刊現代』で勝さんの弟子だった谷崎弘一さんと対談もしてもらったこともあった。本当にお世話になっている兄貴分である。
昨年から、原田芳雄さん、ジョー山中さん、安岡力也さん、そして長良じゅんさんと勝さんに縁のある人が次々と亡くなっている。確かに可愛がっていたのは分かるけど、桑名さんまで呼ばないでください。もう少し待って下さい、と言いたくなる。
以下は、『偶然完全』では話の流れからずれてしまうので残念ながら割愛し、『日刊ゲンダイ』の連載で書いた桑名さんと勝さんの話だ。

☆    ☆    ☆    ☆

勝さんが可愛がっていた人間の一人に、ミュージシャンの桑名正博さんがいる。
ぼくが一緒にいた頃、勝さんが大阪に行く時は、「桑名に連絡しないとな」と呟いたのを聞いたことがあった。勝さんが亡くなった後、全くの別件で桑名さんとお会いする機会があった。勝さんの話をすると、そもそも何の用件で会ったのか忘れるほど、勝さんについての話で盛り上がったものだった。
 桑名さんが地方でディナーショーを開いた時の話を聞かせて貰った。
 会場でリハーサルをしていると、勝さんが突然現れたという。
「丁度この辺を通りかかったら、桑名正博って書いてあったから、ちょっと来たの。本番は来られないかもしれないけど」
 たまたま通りかかった筈はない、調べてわざわざ来てくれたのだろうと桑名さんは思った。
 ディナーショーの時間になると。やはり勝さんは会場に現れた。勝さんのために、一番前の席を準備しておいた。すると、「前は絶対に嫌だ」と勝さんは首を強く振った。
 そして、一番後ろで立ったまま煙草を吸ってみていた。
(やりにくいなぁ)
 と思いながら、桑名さんは歌い続けた。一段落したところで、「今日はお客さんで勝新太郎さんがお見えになっています」と紹介した。観客席からは驚きの声と拍手が巻き起こった。
 勝さんは手を挙げると、拍手に応えた。そして、ゆっくりとステージに向かって歩いてきた。
 そのままステージに上がって、桑名さんから渡されたマイクを持つと、バンドの方を向いた。
「じゃ、マイ・ウェイ」
 フランク・シナトラが歌っていた、勝さんの得意なスタンダードナンバーである。
 リハーサルの後、桑名さんはバンドメンバーに指示を出していた。
「たぶん、勝さんは来るから、『マイ・ウェイ』と『りんご追分』は練習しとこうか?」
 勝さんはマイ・ウェイを気持ちよさそうに歌い終わった。客の拍手が鳴り止まなかった。勝さんは再びバンドの方に向くと、
「りんご追分できる? 最初はタンタカタンってピアノを弾いていればいいから」
 それから、しばらく後のこと――。
 桑名さんの自宅に一枚の葉書が届いた。そこには、「ご家庭で勝新太郎」と書かれていた。自宅で勝さんとバンドを呼んで、パーティをやらないかという誘いだった。
――誰が自宅に勝さんとバンドを呼んでショーをやるねん。来てもうても困るわ。
 桑名さんは思わず吹き出してしまった。丁度、勝プロの経営が傾いていた頃だった。どこまで本気か分からないのも、勝さんの魅力だった。

2009年年末には『ニューイヤーロックフェス』の収録のため、上海まで着いていった。連日飲み続けて楽しい日々だった。写真はリハーサル風景。キーボードは小島良喜さん。

2012年07月10日

友人の絵描き、下田昌克の家は千駄ヶ谷のビル屋上にある。『傷だらけの天使』に憧れていた下田は、このロケーションが一目で気に入ったという。
じりじりと太陽が照りつけ、じっとしているだけで汗が身体中に広がり、薄い膜になりそうな錯覚となる。そんな暑い日だった。
下田の家に来たのは、久し振りのことだ。下田に限らず男の友人は、毎日連続して会うこともあるし、気が付くと数年会わないこともある。下田は昨年の出版パーティに来て貰って以来、しばらく会っていなかった。電子出版EXPOに一緒に出展しないかと誘ってから、偶然に大飯原発再稼働反対デモで見掛けたりと、連絡を取り合っていた。
この日は、『一流魂』の収録が下田の家で行われるというので、観に来たのだ。
そもそもは、ぼくが『偶然完全 勝新太郎伝』で『一流魂』に呼ばれた時、中田カウス師匠に「こんな本も出しているんです」と『辺境遊記』をプレゼントしたことだった。
「下田という絵描きは面白いですよ」
そして、番組出演が決まったという連絡をもらった。
ぼくや下田の年代の関西人にとって、カウス師匠は子どもの頃からテレビの中で見た大御所である。そうした人が目の前にいると思うと不思議な感じだ。そして、緊張する。
下田は「カウス師匠の番組に出ると言ったら、おかんが来たいって言っていたわ」と、いつも以上に落ち着きがなく、動物園のシロクマのように同じところを歩き回っていた。
ぼくの収録の時は、勝新太郎さんが大好きなカウス師匠と二人で次々と話が続いた。もう一人のMC、藤井隆さんの存在が薄かったのだが、下田の収録では的確なコメントを挟み、センスの良さを感じた。
緊張して頭をかきむしる下田のことを笑いながら、カメラの横で見ていると、突然カウス師匠は「なぁ、健太、どうや」といきなり話を振った。結果的に、番組に絡む形になってしまった…。愉快な二時間強の収録だった。
カウス師匠たちが帰った後、下田は思ったように話せなかったと、憑きものが落ちたかのように、背中を丸めていた。
「ビールでも飲まない?」
下田の言葉でぼくたちは立ち上がり、近くのカフェに向かった。木のテーブルが印象的な、センスのいいカフェだった。たぶんベルギー産だったと思う、旨い白ビールを飲んだ。悪くない夏の日だった。

画伯が書いたカウス師匠の絵、完成間近。

2012年07月06日

今週は、ずっと睡眠不足が続いていた。
ぼくが担当している早稲田大学のスポーツジャーナリズム論の最終課題が6月末で提出されてきた。
受講生は300人以上、提出してきたのは250人程度……転送されてきたのは、全部で32万文字のWord文書だった。まずは全員の原稿を読んで評価をつけて、30人程度に選んだのが水曜日の朝。そこから12人に絞って、授業前日木曜日の深夜、スライドに落とし込んだ。
ぼくは相当、文字を読むのが速い。仕事のため、時に1日10冊程度の本に目を通すこともある(読むとは少し違うが)。しかし、学生の原稿は、それぞれ違うテーマで書かれているので、一気に読み通すことが出来ない。力の入った原稿を三つほど読むと一息つくことになる。だから、もの凄く時間が掛かるのだ。
この授業が始まって、もう6年目になる。毎年、この時期は原稿読みに追われてきた。そして年々、レベルが上がり、気を抜けない原稿が増えている。
この授業及び後期の『実践スポーツジャーナリズム演習』からは多くの卒業生がマスコミの世界に巣立っている。特にテレビは毎年どこかのキー局に入っている。少しでもここで感じたものを生かしてくれれば、という思いで続けてきた。辛くも楽しい仕事ではある。とりあえず今年も終わり、ほっとしている。
その後、東京ビッグサイトで行われた電子出版EXPOへ。『偶然完全 勝新太郎伝』が美術出版社『BookPic』というソフトのサンプルになっている。楽天が格安なリーダーを発売したばかりということもあるだろう、電子出版は注目を集めており、会場は混み合っていた。そんな中、リーダーではなく、ソフトで見せようとするブックピックは実用性が高く、テレビ等で取りあげられたという。今後、作り手がメディアをコントロールすることも必要になる。今年の後期授業では、このソフトを試しに使ってみようかという気になっている。
教える側は日々、時代の流れを感じて進化しなければならない。特にジャーナリズムは動いている。過去の自慢話ばかりしているベテランは必要ない(なぜかそういう人が新聞記者に多い…)。学生時代、法学部の授業は毎年同じ内容で退屈だった経験がある。そうはしたくない。と、留年した言い訳をしておこう。

美術出版のブース。奥に見えるのは、下田昌克画伯の『プライベートワールド』。

『偶然完全 勝新太郎伝』が表紙となったCDが配られていた。小さくなっても、存在感がある。デザイナーの漢ちゃん、次も頼むぜ!