週刊田崎

田崎 健太 Kenta Tazakimail

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。
著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克 英治出版)。 最新刊は『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)。
早稲田大学講師として『スポーツジャーナリズム論』『実践スポーツジャーナリズム演習』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。『(株)Son-God-Cool』代表取締役社長。愛車は、カワサキZ1。twitter :@tazakikenta

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201105

2012年03月23日

【テレビ出演情報】
『一流魂』(MXテレビ) 3月25日12時30分〜13時00分
先週のオンエアーまで知らなかったのですが、前後二回に分けられたようで、次回も出演してます。確かにあっという間に時間が過ぎており、楽しい収録でした

☆     ☆     ☆     ☆     ☆

昨日、ブラジルより無事に帰国した。
今回のブラジル出張の主たる目的は、リオでジーコに話を聞くことだった。
彼は現在、イラク代表監督を務めている。本当ならば、イラクに行きたいところだったが、ブラジルの方がゆっくり話が出来ると言われた。というのも、イラクはFIFAによりホームでの試合を禁じられている。試合の前になると、カタールへ行き、選手たちを集めて合宿、試合が終わるとブラジルに帰ってくるという生活だった。
まず一月にリオで話を聞く約束をした。ところが一月のスケジュールが大幅に変更になり、延期。
今度は、
「三月三日の誕生日には必ずリオに帰る」
というジーコの言葉を信じて、飛行機の予定を組むと、それも変更となった。
イラクではブラジル以上に、予定が頻繁に変わるのだという。その後も帰国日程が微妙にずれた。サンパウロでの取材の予定も入れていたので、ぼくはリオとサンパウロをわざわざ一往復半するという、変則行程となってしまった。
最後の最後――ブラジルに戻ったジーコに連絡を入れると相当疲れているようだった。身体を気遣って、先週の金曜日に予定していた取材は、月曜日に延期することにした。結局、月曜日の夕方に取材をして、翌朝に入稿するという綱渡りになった。
この取材は、まず来週発売の『週刊プレイボーイ』(集英社)に掲載される。その後、違った切り口で『サッカー批評』(双葉社)という専門誌に長めの原稿を書く。
さらに――。2006年W杯以降、ほぼ毎年ジーコに話を聞いている。それを短編としてまとめる。今回はその締めでもあった。

また、中田宏・大阪市特別顧問に密着したルポルタージュが明日、二十四日発売の『GQ』(コンデナスト・ジャパン)に掲載されている。
経験上、政治家は最も取材しづらい人種の一つである。政治家は、ぼくたちと同じように言葉が武器である。失敗でさえ、観点を変えて、ちょっとした嘘をまぶし、自分の都合のいい話に変える。尋ねられたことを答えるのではなく、答えたいこと、人に聞いて欲しいことをいかに流ちょうに話すか――彼らへのインタビューは往々にして演説会になってしまう。
取材者は綿密に準備をしてその微妙な嘘に対抗しなければならない。だから政治家の取材は嫌いだった。
ただ――
『GQ』がリニューアルすると鈴木正文編集長から、何か書きたいものはないかという話をもらった。ぼくは、即座に「橋下改革」を特別顧問に就任した中田さんからの視点で書きたいと答えた。 中田さんと深く話すようになったのは、横浜市長を辞した後のことだった。最初に会った時は四時間ほど話し込んだ。率直な質問をいくつもぶつけた。彼からは政治家らしくない、まともで分かりやすい返事が返ってきた。人は豹変する可能性があることは分かっている。ただ、現時点で彼は信用に値する政治家だと思っている。
橋下市長には沢山の記事がある。その中から、個人的な嫌悪から生まれた記事、出自の暴露等を除くと、驚くほどまともな記事は残っていない。橋下憎しから始まった記事が圧倒的に多い。
橋下改革に中田さんが横浜でやった改革を当てはめてみると、また違った景色が現れてくる。橋下と中田、考えは似ているにしても、非常に対照的な人間――この二人を描いた。
今後もこの二人を追いかけていくつもりである。

いつもの通り、インタビューは二時間近くなった。イラク代表はW杯最終予選で日本と同じ組になった。ジーコによると、酷い環境だからこそ、選手のモチベーションが高いのだという。イラクとの対戦、楽ではなさそうだ。

中田さんがかつて住んでいた大阪の阿倍野区を訪れた時の写真。『GQ』では、『AERA』の団野村さんに引き続き、中村治君が撮影している。撮影していると小学生たちが「有名人?芸能人?」と話しかけてきた。中田さんのことを説明すると「とりあえず握手してください」と手を差し出した。「明日の朝礼で話する」らしい。大阪の子はおもろい。

2012年03月18日

【テレビ出演情報】
『一流魂』(MXテレビ) 3月18日12時30分〜13時00分
中田カウスさんと藤井隆さんの番組で「偶然完全 勝新太郎伝」について語っています。カウスさんは勝さんの大ファンだったようで、色々と面白い話が出来ました。

本が近くの書店にない場合は、『Amazon』で注文可です。

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ブラジルを始めて訪れたのは95年のこと。その後、97年6月からは一年間、サンパウロのリベルダージにアパートを借りて、南米大陸を放浪していたこともある。この時も一年のうち半分ぐらいはブラジルにいた。何度来たのか数えられなくなったが、延べで二年近くこの国滞在しているだろう。

次の単行本では、97年にぼくがブラジルに居た頃の話が出てくる。そのため当時の日記を読み返して、リベルダージ周辺を歩いている。97年前後、リベルダージは辛うじて日本人街だった。今では韓国人や中国人が増えて、日本人街から東洋人街へと変化している。日本食の店は沢山あるが、かなりおかしなメニューばかりである。店員も客もブラジル人ばかりだ。
ぼくが日記をつけるようになったのは、ブラジルに来る少し前のことだった。出版社の社員だった頃と、南米大陸を一人で彷徨っている頃と、書いている内容の分厚さが違う。出版社ではいい給料を貰っていたが、それに相応しい仕事はしていなかった。だから、地に足がついておらず、ふわふわと浮ついている感じがある。
出版社で働いていると、それなりに面白い日々を送ることが出来る。しかし、それは自分に能力があるからではない。社員だからだ。その後ろめたさも、日記に現れている。
リベルダージにある古いアパートで生活しながら、ぼくは自分を見つめ直し、本当の意味での大人になった気がする。当時、ぼくは二九才だった。

最近はサンパウロに滞在しても、リベルダージにはほとんど来ない。そもそも和食を国外で食べる習慣がない。どうしても普段食べているものと比べてしまう。日本食は日本で食べるのが一番旨い。
それでも――たまにここ来ると色んなことを思い出す。やはり思い出の街である。

ぼくのサイトはこの地区と同じ、「liberdade」というドメインを使っている。このドメインを選んだのは、ぼくではない。ブラジルに行く前、大学の後輩が何らかのサイトを立ち上げましょうと言った。彼が「ポルトガル語でリベルダージは自由という意味みたいですね。リベルダージというのがいいと思うんですよ」と取得していたのだ。それが今では、リベルダージという言葉は自分の物のような気がするから、不思議なものだ。

2012年03月16日

先週末からサンパウロに来ている。
今回の滞在でつくづく思うのはブラジルの物価が高いことだ。だいたい年に一度は来ているので、定点観測的に物価上昇を感じる。
ぼくは97年6月から一年間、サンパウロのアパートを借りて、そこを拠点に南米大陸をバスと船で回っていたことがある(拙著『偶然完全 勝新太郎伝』にも書いた)。当時は一レアルが一ドルだったので、円換算すると南米大陸の国々では飛び抜けて高かった。当時よりも悪いのは、レート以前にブラジルの物価自体が上がっていることである。
ブラジルではビールは水のようなもので、店で生ビールを飲んでも一レアルちょっとだった。今は四〜五レアルする。サンパウロは地下鉄が発達している。どれだけ乗っても同じ運賃である。これも最初は一レアル程度だったが、今回は三レアルになっている。
五つ星のホテルも抜け道があり、上手く借りると一泊百ドル以下になった。今は、二百ドル、三百ドルが当たり前である。サンパウロやリオで、ちょっとしたレストランで食事して、軽くビールを頼むと日本円で五千円から七千円は飛んで行く。体感的には、以前の三倍以上である。

振り返って見れば、97年前後は、ブラジル経済が羽ばたく準備をしていた頃だった。世界最大の鉱山である、リオ・ドセが民営化で売りに出ていた。携帯電話が出始めで、こちらも各州ごとに売りに出されていた。ブラジル政府関係にパイプを持つブラジル人の知り合いが、「アマゾンなどの権利を買う会社がないんだ」と嘆息していたのを思い出す。バブル経済崩壊で縮みあがっていた日本企業はどちらにも手を出さなかった。あの時、日本の商社たちがコンソーシアムを組んでリオ・ドセを購入し、日本の通信業者がブラジルの権利を取得していれば、世界に進出することが出来ただろう。

もしかしてバブル経済の崩壊は関係なかったのかもしれない。
ぼくは気が進まなかったが、友だちに連れられて日本人街のカラオケ≠ノ行ったことがある。そこは日本人駐在員が集まっていた。彼らに話を聞くと、長年住んでいるのにサッカーさえ観に行ったことがない人がいた。
「だって危ないんでしょ? ぼくは君らと違うからね」
ぼくは混血のオフィスボーイ(コリンチアーノ)の運転する黄色いプーマ≠ナしばしばコリンチャンスの試合に行っていた。プーマはブラジル国産のスポーツカーで、見栄えは日産Zに似ているが、サスペンションはないに等しく、走ると上下に激しく揺れた。スタジアムは小便の匂いがして、荒れた空気が流れていた。それでも気をつけていれば問題はなかった。それがブラジルで生活するということなのだ。
ぼくは毎日、ブラジル人に混じってバールでフェジョンと肉の定食を食べて、船とバスでブラジル中を歩き回っていた。運転手付きの車で移動する駐在員が、カラオケで「ブラジルとは〜」「ブラジルの女性ってね〜」と訳知り顔で話をするのを退屈な顔で見ていた。そして、件のブラジル人が「どうして日本の企業は優秀な人間をアメリカや欧州に送るの? おかしいでしょ。アメリカや欧州は誰でも出来る。ブラジルはこれからの国だよ。どうして将来のある、この国に一番優れた人間を送らないの?」と首を傾げているのを思い出した。

その後、ブラジルで日本企業が、サムソンを始めとする韓国企業に追い抜かれたのは、なんとなく頷けた。今回、この国では沢山の中国車が走っているのを目にする。近々、中国企業にも抜かれるかもしれない。
ただ、まだまだ日本企業はこの国を理解していると思えない。例えば、ブラジルにはハーレー・ダビッドソンのディーラーが出来ている。税金の高いこの国では日本の倍以上の値段になっている。それでも週末になると、隊列を組んだハーレーの集団が現れる。しかし、日本のオートバイメーカーは相変わらず、不格好なビジネス車ばかりラインナップに載せている。この国の金持ちは破格だ。この国でこそ、新しいVMAXのような高級オートバイが売れるはずなのに。
日本企業が巻き返すには、体質自体を変えなければならない、とつくづく思う。

サンパウロの地下鉄は、駅も車両も新しく、明るくなった。車両にはディスプレイが設置され、ニュースが流れている。以前よりもずっと混んでいる。経済が動いているのだ。

ぼくの好物、『エスタダン』のサンドイッチ。これで十レアル、約500円。結構な値段だ。

2012年03月07日

今朝、ニューヨーク経由でリオ・デ・ジャネイロに到着。通常スターアライアンス系の航空会社しか乗らないのだが、今回は色々とあって、アメリカン航空を使うことになった。荷物の重量を気にしたり、ラウンジが使えなかったりと、完全にアウェー状態である。
さらに、いつもはロスで一、二泊して時差を調節からブラジル入りしていたのが、今回はダイレクト。トランジットのニューヨークでは入国審査に二時間待たされた……。

さて。
リオ・デ・ジャネイロは真夏。街角の温度計は三十度を指していた。空港からセントロまでは大渋滞。車の数が明らかに増えている。昼時、旧市街の宿から近くを歩いてみると、通りは人で埋まり、さざめきで地鳴りがするようだった。決して安いとはいえない食堂は満員、ブラジルの景気の良さは眩しい程だ。
予定では、リオで仕事を済ませてから、サンパウロに移動。サンパウロでも取材した後、帰国――というつもりだったが、この国で良くあるように予定が二転三転した。結局、先にサンパウロで取材してから、リオに戻って、またサンパウロから出国する。なんのために、わざわざリオ着サンパウロ発にしたのやら。この辺りは、いつものブラジルと変わらない。

【『偶然完全 勝新太郎伝』書評関係】

『プレジデント』(2012年2月27日発売号 プレジデント社)、『kotoba』(2012年春号 集英社インターナショナル)。

『週刊ブックレビュー』(NHK BSプレミアム) 3月10日(土曜日)午前6時30分〜午前7時24分

近くの書店にない場合は、『Amazon』で注文可です。

リオの旧市街はポルトガルが支配していた時代の建物が残っている。本来ならば観光資源となるのだろうが……。残念ながら、保存はあまりいいと言えず、小便臭い。こうしたところも相変わらず、である。