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  田崎健太Kenta Tazaki......tazaki@liberdade.com
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。
  2006..........2005..>> 12.>11.> 10.>.9.> 8.> 7.> 6.> 5.> 4.> 3.> 2.> 1..........2004

 

 

2005年1月29日


ハンドボールの日本代表は、結局二勝三敗のグループ四位の成績で、予選リーグ敗退となった。オリンピックチャンピオンのクロアチア、強豪スペインとスウェーデンと同じ組に入ったことは不運ではあった。四位というのは順当な結果であったのかもしれない。
ただ…。
上位三つとの対戦のうち、僕はスウェーデン戦だけしか見られなかったが、あの試合ではチーム全体から「勝ちたい」という気持ちが伝わってこなかった。この試合で負けると予選敗退が決まるというのに、どこか他人事だった。
もちろん勝ちたいと思っている選手はいた。ただ、選手間で温度差があった。スウェーデンとは力の差はあったが、もっと激しい試合にすることはできるはずだった。そういう試合をすることによって得られるもの、それが未来に繋がるはずだった。
その点で、不完全燃焼だった。
最終戦、日本はオーストラリアに勝った。試合後の記者会見に、主将の中川君と田場君が並んで座った。彼ら二人はまるで負けた選手のように暗い顔をしていた。
その表情が今回の日本代表の戦いを象徴していた。

 

記者会見にて。
明日のバスでチュニスに向かう。明日の夜にはパリに戻る。


 

 

 

2005年1月26日


ある程度は、予想していたのだが…。
パリからチュニスへと到着したのは昨晩の日付が変わる深夜だった。空港にはメディアのための二十四時間対応デスクがある、そこで色々と手配してくれるということになっていた。
チュニスの空港には、世界大会の赤いポスターはあちらこちらに貼ってあった。到着ロビーには、確かに「プレス」と書かれたカウンターがあった。しかし、人は誰もいない。
眠そうな顔をしていた隣の観光案内所の男に尋ねると「五分ぐらいで戻ってくるよ」と言った。
五分、十分、そして、三十分。男は僕の様子を見て、どこかに電話をした。
「戻ってくるはずだから」
僕を見て目配せした。
しかし、一時間をすぎても誰も来ない。古く寂れた空港にはシャッターの音が響き、モップを持った掃除婦が現れた。僕はしびれを切らせて立ち上がると、観光案内所の男は、落ち着けといった仕草をして到着口の中に入っていった。しかし、中に大会関係者は誰もいなかった。男が電話をしてくれたホテルに泊まることになった。
今朝、早起きをして再び空港に戻ってきたのだが、やはり誰も人がいない。カウンターの前には、大会のために働いているという運転手がいた。しばらく待っていれば誰から来るよと言った。信用できないが、とりあえず待つしかない。
事務局の背広を来た男がやってきたのは、昼前になっていた。空港の端にあった小部屋に連れて行かれた。男が二人いた。パソコンが二台だけある、がらんとした部屋で、デジタルカメラで僕の顔写真を撮影。事務局まで行けば、その場でIDを出してくれるという。
外国人プレスが来ることは予想されているのに、英語を話したのは一人だけ。どの男も手慣れた感じがしない。
ただ、昨日のカウンターの男もそうなのだが、親切だ。とにかく手伝いたいという気持ちは伝わってくる。
ブラジルと同じだ。あの国もいい加減だが、悪気はないのだ。時間の流れはゆっくりであるので、その流れに乗ればなんとかなる。

 

チュニスからスファックスに向かう車の中より。
空港の男が車で大会委員会の本部まで連れていってくれた。
「あなたはホテルがないんだったわね」と担当の女性は僕の名前を見ると言った。僕のことは伝わっているようだった。それならばそれで連絡をくれば良かったのだが…と思っていると「今日一部屋とれたの」という。さらに、VIP用の車で、スファックスまで送ってくれるという。やはり、いい加減だが親切な国だ。


 

 

 

2005年1月25日


久しぶりにこれまで行ったことのない国だ。
ここ数年は世界を飛び回っているといっても、ブラジル、パラグアイ、ペルー、スペイン、ポルトガルと言葉の通じるところがばかり。一昨年からそこにフランスが加わった程度だ。南米全十三ヶ国(フランス領ギアナを一国として)、北中米で五ヶ国、欧州五ヶ国(トランジットをのぞく)、アフリカ一国、アジア七ヶ国(香港を一国として)、今度のチュニジアで三十二ヶ国目となる。
初めての国というのは緊張するものだ。チュニジアは、アラビア語の他、フランス語が通用するという。といっても、フランス語は現在勉強しているが、まだポルトガル語やスペイン語のようにはいかない。
今回のチュニジア行きは、ハンドボールの世界選手権の取材のためだ。大会委員会がメディア用のホテルをホームページで紹介している。各自、そこに連絡をいれて予約をとるようにということだった。
ところが、日本代表が試合をするスファックスという街にあるホテルのアドレスというのは、ドメインが途中で欠けており不完全なものだった。ホテル名で検索してアドレスを探し出さなければならなかった。さらに、このアドレスに何度メールを送っても返事がない。
大丈夫なのかと不安にはなるが、とりあえず行ってから考えることにしよう。先を考えないこの腰の軽さで何度も後悔したことか。それでもこの癖は治らない。
こんな風に、僕はパリを経由してチュニジアに向かった。

 

パリのシャルル・ドゴール空港にて。すでにチュニス行きの飛行機は遅れている…。
チュニジアに向かう前に、がっかりしていたことがあった。大会のメンバーから大崎電気の東君が落ちてしまったのだ。合宿のメンバーから本大会へは二人の選手が落ちることになっていた。
愛すべき男である東君のため、彼の愛読誌「週刊プレイボーイ」をチュニジアに持参しようと、僕の担当に連絡を入れて先週号を送ってもらっていた。メンバー落ちというのは勝負の世界で普通にあり得ることだ。それは理解しているのだが…。


 

 

 

2005年1月19日


無事に日本に帰国している。
取材旅行が短期間で、なおかつ日本にいる時のように予定が詰まったものであったせいか、思ったよりすんなりと冬の日本に馴染んでいる。
ここ数年、僕は一年におおよそ地球を三周する距離の移動をしている。僕のパスポートは五年経たないうちに、出入国の判子を押す頁がなくなってしまった。
小学校の時、京都の舞鶴という街に三年間住んでいた。舞鶴は、日本海に面した港町で、ロシアとの交易が盛んだった。僕にとって、物心ついて最初に出会った外国人はロシア人だった。
その頃の僕は、港から出る船を眺めるのが好きだった。港から出る船に乗って街を出ることを夢見ていた。
先日取材した、パーソナルトレーナーのケビン山崎さんは「僕にとって日本というのは、アメリカのアナザーステイトみたいなものなんですよ」と言った。彼は一ヶ月半に一度、情報収集のためにアメリカを訪れている。
船を眺めていた小学生の時から三十年近く経った今、僕もケビン山崎氏の感覚に近くなっている。ブラジルを「アナザーステイト」とまでは言い切れないが、それほど遠いという感じはない。ちょっと二十四時間飛行機に乗るのを我慢しようかという程度だ。
自転車に乗って隣町に行くだけで、わくわくした子供の時の気持ちを思い出すこともある。そうした気持ちを失うということが大人になるということなのかもしれないのだが。

 

地球が小さくなったのは、IT技術の進歩によってだ。それにより、世界が同じ色に染まりつつある。
今の僕はIT技術がないと仕事ができない。いや、IT技術があるからこそ、今の仕事のやり方が出来るといってもいい。僕の机の引き出しには、日本の他、ブラジル、スペイン、フランス、ペルーの携帯が入っている。僕が南米を一人で旅していた、1997年ごろは、携帯電話を持つ人がいたのは都市に住む一部の人だけだった。不便ではあったが、IT技術が地球を席巻する前に、人生の糧となる長い旅が出来たことは、幸運だった。


 

 

 

2005年1月13日


今日の午後、サンパウロから西に向かい、州境を越えてミナス・ジェライス州へ取材に出かけた。サンパウロに戻った頃にはすっかり日が暮れていた。夜になり下がった気温が、日焼けした肌に心地よい。
ただ、そんな太陽の余韻に浸っている時間はない。今晩深夜の飛行機でロス経由で日本に戻るのだ。これから慌てて荷造りをしなければならない。
荷造りに加えて、気持ちの整理も必要だ。南半球の夏の太陽ですっかり日焼けした僕の肌は、日本の寒さをすっかり忘れてしまっている。

 

ミナス・ジェライスのホテルにある鳥居。
鳥居は、サンパウロの東洋人街リベルダージの通りにもある。ブラジル人は鳥居が好きなのだ。
プール、水着の女性と鳥居は不思議な組み合わせだ。


 

 

 

2005年1月12日


昨日からリオに滞在している。着いたときは、今にも泣き出しそうな曇り空だったのだが、夕方から雨が降り始めた。今日も雨は続いている。
ブラジルの天気は晴れているばかりではない。僕の経験でも、リオで一週間ずっと雨が降ったことがあった。特に夏、カーニバルのシーズンはそうだ。逆にサンパウロでは、三週間以上、一滴も雨が降らない時もあった。この国は天気まで極端なのだ。

 

雨のコパカバーナ海岸。
リオは、都市計画の失敗の見本のような街で、あちらこちらがいつも渋滞している。
雨が降るとそれはひどくなる。


 

 

 

2005年1月8日


意外かもしれないが、サンパウロは暑いという印象はない。標高七百メートルにあるサンパウロは冬は十度近くまで気温が下がる。雨が降ると底冷えがする。夏であっても、曇った日はそう暑くはない。サンパウロ州のほかの街が、三十度を越える日も、サンパウロの市内は雨が降ると、半そででは少し肌寒いぐらいということもあるのだ。
ところが、今回は様子が違う。本当に暑いのだ。街角の温度計に従うならば、三十度前後の気温なのだが、東京と同じようにコンクリートの建物が多く地面がアスファルトに覆われているせいか、三十九度のアスンションに負けないほど暑く感じられる。

 

タッサ・サンパウロに出場中しているフラメンゴのジュニオール(ユース年代)のバスに便乗。
この中から、次のジーコ、あるいはレオナルド、マルセリーニョ・カリオカ、アドリアーノが出てくるかもしれない。この後、夕食までご馳走になってしまった。


 

 

 

2005年1月7日


パラグアイの首都アスンションに来ている。本当は一月四日にこの街に到着するはずだったが、LAのトランジットの入国審査で手間取り、その日のサンパウロ行きを逃してしまった。翌日に便はないため、二日遅れで昨日到着したのだ。
 今回の取材旅行は、一月三日に出て十五日に日本に戻るという強行軍になってしまった。
 十二日間と聞くと、それほど短くは感じないが、日本から目的地ブラジルまでは飛行機は二十四時間、日本でブラジルのビザ取得が間に合わなかったのでパラグアイの首都アスンションのブラジル領事館に立ち寄らなければならない。
 ブラジル人というのは、本当に時間や約束を守ってくれない。特にリオの人間、カリオカの時間の感覚は特別だ。何年か前、現日本代表監督とリオの自宅で待ち合わせをしたのだが、四時間遅れてきたことがあった。ブラジル人を相手にすることを考えれば、今回の日程は滅入ってしまうほどの短期間になってしまうのだ。
 出発前から憂鬱だったのだが、さらに二日も時間が減ってしまった。先行きが不安になるが、気にしても仕方がない。飛行機の中で固まった身体を動かそうと、今朝九時から植物園まで走りに出かけた。
 南半球は夏真っ盛りだ。湿度をたっぷりと含んだ空気が身体にまとわりつく。太陽が少しずつ上に昇るにつれて気温が上がっていくのが分かる。流れる汗が心地よい。僕の身体には暖かい場所のほうが合っている。

 

太陽が真上に昇ると、街角に立っているデジタル式温度計は「三十九」という数字を示していた。


 

 

 

2005年1月1日


謹賀新年。
年始の東京を僕は嫌いではない。
冷たい空気の中で、三が日は街から人の姿が消え、いつもと違う顔を覗かせる。
年末ぎりぎりまで仕事が入っており、年賀状を書いたり、原稿を書いたりと、ほとんど仕事場に閉じこもっていた。これほど地味に年末年始を過ごしたのは、本当に久しぶりのことだ。
さて、今年の抱負。
昨年は、「VS.」等、雑誌では満足できる仕事が出来た。時間を掛けた取材を元にした重層的な原稿を書けたと思う。
ただ、単行本を一冊も出すことが出来なかった。今年は少し単行本にこだわってみるつもりだ。
最近は本当にスポーツ分野の仕事が多い。「VS.」の玉田の原稿でも書いたのだが、現在の日本のスポーツというのは、高度成長期の工業製品のように、世界から認められつつある。
現在進行形でドラスティックに変化が起こりつつある分野というのは、物書きにとっては魅力的な題材である。僕がスポーツ、それも国外と繋がったスポーツに惹かれるのは当然のことであるのだが、今年はそれ以外のことも書いていきたいと思っている。

 

今年の年賀状は、サンパウロからサントスに向かう途中で撮ったものだ。
ここ数年の年賀状の中でも、今年の年賀状はいい出来だと気に入っている。


 

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