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  田崎健太Kenta Tazaki......tazaki@liberdade.com
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。
  2006..........2005..>> 12.>11.> 10.>.9.> 8.> 7.> 6.> 5.> 4.> 3.> 2.> 1..........2004

 

 

2005年8月30日


この日の『スポーツ報知』に写真入りで、僕のインタビュー記事が載った。インタビューをするのは商売ではあるが、人からインタビューをされることは苦手である。以前、本を出版した時に、取材を受けたことがあったが、自分のことを、きちんと伝えることは難しい。これも慣れであるのだな、と思った。
インタビュアーとしては、取材慣れしている被取材者いうのは厄介だ。取材を多数こなしている人は、多くの質問に関して答えを用意している。テレビなどではそうした、そつのない答えでもいいのだろうが、活字媒体はそうはいかない。想定問答集にない言葉を引き出すのは、短い時間では不可能であり、そこは聞き手としての腕が必要になってくるのだが。

 

新聞の写真を見て、普段と印象が違うというメールが幾つか来た。普段はどんな印象なのか…。


 

 

 

2005年8月22日


「秘密の花園」というミュージカルを見に、恵比寿へ出かけた。
劇団ひまわり主宰の芝居に、知り合いの岸祐二(http://www3.airnet.ne.jp/codered)が出ている。
祐二とは、もう十年以上前、大学生の時からの付き合いである。僕が大学を卒業し、就職した後も、しばらくは会っていた。
そのうちに俳優志望だった祐二は、テレビなどに少しづつ出るようになり、戦隊物のカーレンジャーの主役、レッド役に抜擢された。僕の方も仕事が忙しくなり、いつの間にか音信不通になっていた。
先日、共通の知人のところで久しぶりに再会した。男どうしの再会というのは、年月を飛び越えることがある。祐二と会った時は、十数年前に戻ったような錯覚に陥った。
そして今日、彼の出ている芝居を見に行くことになったのだ。この芝居は、英国の作家バーネットの百年以上前の作品を原作にしている。この作品をどうして今やる必要があるのか、という多少の疑問はあるが(演劇の世界では良くあることである)、出来は悪くなかった。何より、祐二が大人の俳優として、存在感のある芝居をしており、年下の子役たちを引っ張っているのには驚いた。
元々彼は歌が上手かったが、その力量を上げていた。この秋にはアルバムも発売するらしい。あの当時、音楽活動に力を入れていたのは僕のほうだった。祐二のお兄さんに手伝ってもらってデモテープまで作っていたのに…と悔しく思った。まあ、それは冗談ではあるが。
クリエイティブに、自分の信じる道を歩き続けている人間をみると元気をもらう。いつか祐二と一緒に仕事が出来ればいいなと思いながら、帰途についた。

 

大学生当時から使っている愛機、ギブソンのレスポールスペシャル。
そろそろ音楽活動を復活……と思っているのだが。


 

 

 

2005年8月11日


暑い日が続いている。
ブラジルなどで暑さには慣れているでしょうと言われることがあるが、東京の暑さは特別である。サンパウロは夏でもそれほど気温は上がらない。確かに暑い日もあるが、日本ほどの湿気はない。リオは気温も高く、湿気もあるが、海に近いせいか、気分的に暑さを楽しめてしまう。東京の尋常ではない暑さは、マナウスなど気温四十度のアマゾン地帯に近い。もちろんアマゾンでは、人々はあまり熱心に仕事をしている感じではない。あの街で、ネクタイを締める人は、本当に特別な人だ。人々の体感温度では東京は世界一暑いかもしれないと思うことがある。
さて。明日発売の『VS.』では東北大学相撲部監督となった脚本家の内館牧子さんを取り上げている。彼女との付き合いは古い。僕が週刊誌で、勝新太郎氏の連載をやることになった。連載開始前の告知として、当時その週刊誌でコラムを持っていた内館さんに勝さんと対談してもらったのだ。
連載のタイトル「何処で果てよと」は、内館さんがつけてくれた。勝さんにふさわしい、そして、内館さんの才能を感じるタイトルだった。
当時の男性総合週刊誌というのは、今の倍以上売れており、なにより活気に溢れていた。スクープ記事を出せば、テレビなど他のメディアが後追いをした。大げさに言えば、時代の真ん中にいたといえる。
活気がある場所には、才能のある人が集まる。僕はあの編集部にいたことで、様々な人と出会えたのだとつくづく感じる。
もう数年前から、男性総合週刊誌を手に取ることはなくなった。中吊りを見ても、過去の企画の焼き直しが多く、活気と作り手の才気を感じない。寂しいことである。

 

週刊誌時代、イタリア出張の写真。
アコーディオン奏者のcobaと一緒にイタリアに行くという、今では決して通らない企画だった。
いい加減ではあったが、自由な空気が当時の編集部にはまだあった。


 

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