logo home 週刊田崎
疾走ペルー 最近の仕事
キューバ レシフェ
  トカンチンス カーニバル
       
  田崎健太Kenta Tazaki......tazaki@liberdade.com
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。
  2006..........2005..>> 12.>11.> 10.>.9.> 8.> 7.> 6.> 5.> 4.> 3.> 2.> 1..........2004

 

 

2005年3月20日


三月に入って、四国の香川、静岡、近郊では水戸など、出張が続いている。
暖かいと思いこんでいた香川では、小雪が舞った。天気が良かったので静岡まではオートバイで出かけたところ、足柄SAで、やはり小雪が舞って手足が凍えた。寒いところが大の苦手なのに…と思う日々である。
この日は、ハンドボールのプレーオフ決勝に出かけた。大崎電気対大同特殊鋼。取材であるので、中立的に見ようとは思うのだが、(中川)善雄や(宮崎)大輔、東、豊田など知っている選手が多いので、大崎が点を取った時には思わず声を上げることになる。
この試合は大崎が勝利し、日本リーグの初優勝の瞬間を見ることが出来た。
思い返せば、僕が見に行った、大阪で行われた全日本総合の準決勝も大崎が勝った。翌日の決勝は、他の取材のため前半しか見られなかったが、僕が帰るまでは大崎は引き分けていた(延長で負けてしまった)。昨日の準決勝も大崎はホンダに勝った。僕が見に行った時は、大崎は負けていない。
ハンドボールは地方の試合が多く、なかなか観るのが難しい。二月の埼玉での試合を見に行こうと思っていたのだが、打ち合わせが入ってしまった。その試合大崎は、大差で負けた。
これは偶然なのか……大崎のためには、足を運ばなくてはならない、と思ったのだった。

 

駒沢体育館にて。昨日の準決勝の後には、選手がファンサービスのために即席のサイン会をしていた。大崎電気は見栄えのいい選手も多い。俳優の袴田吉彦に似た、太田選手の周りには女子高生が集まって記念撮影していた。アズマ俊介君は誰に囲まれているのだろう…と探したのだが、見つからなかった(彼のお母さんは、わざと黄色い声で「アズマさん〜サインください」と呼びかけたらしい)。


 

 

 

2005年3月13日


移動の多い旅を続けて、日本に戻ってくると、目を覚ました時に、自分はどこにいるのか、ひどい時には自分は誰なのか、一瞬分からないことがある。
恐らく一秒に満たない時間だ思う。辺りに散らばった記憶の欠片をかき集めて、ようやく自分が日本にいることに気がつくのだ。
この錯覚が起こるのは日本に戻った時だけで、旅先で起こったことはない。
深い夢から覚めた時、ここがどこなのか分からなくなるのは理解できる。しかし、自分は誰なのかが分からなくなるのは不思議だ。自分はどこか違う星にいて、地球で生活する夢を見ていたような錯覚に陥る。その時、僕は何にも繋がっていないような、あるいは底の見えない池を覗き込んだような、恐怖に一瞬襲われるのだ。

 

僕は基本的に験を担ぐことはない。神頼みは好きではなく、初詣に行ったのもほんの数回程度だ。そんな僕だが、旅に出かける時には、このコンパスを鞄の中に放り込んでいる。IT技術の発達したこの時代、特に役に立つとは思えない。ただ、コンパスをぼんやりと眺めているだけで、心が落ち着くことがある。
今の世の中、現実問題、道に迷うよりも、人生で迷う方が多いのだが。
そして今日、僕は三十七才になった。


 

 

 

2005年3月3日


「新しいオートバイを買うことにした」という話をしたあと、「三十年以上前に発売されたオートバイなんだ」と付け加えると、何人もの友人が訝しい顔をした。どうしてわざわざ、と言いたそうだった。
昨年秋に僕は、僕の生まれた年に近い、三十年以上前のオートバイを買うことにした。
本当は、別のオートバイを買おうと幾つか店を回ったのが、どうもしっくりと来なかった。ふと通りかかった店先に、何台もの古いオートバイが並べられていた。僕は自然と店の中に、引き寄せられていた。
そこには70年代のカワサキのオートバイが所狭しと置かれていた。
僕にとって、カワサキのZシリーズは特別なオートバイだ。中学生の時から憧れていたのはもちろんだが、大学四年生の時、友人と二人でアメリカ大陸を横断した時に乗っていたのが、Z−1Rの・型だった。
店先で久しぶりにみた古いカワサキのオートバイに僕の心が揺れた。
あの時代のオートバイには、色気がある。その理由の一つは邪念がないことだ。
今のオートバイというのは、ある時点で敢えて進化を止めている。速くすることは幾らでも可能である。そうしないのは、乗り手が手に負えないからだ。
当時のオートバイは違った。
ひたすら速く−−、そしてまだ低い扱いを受けていた日本製のオートバイを国外の人々に認められること、それだけを純粋に考えて作られていた。
今のオートバイと比べると未完成な部分は多い。いや、足りないところだらけだ。生活が便利になるどころか、逆に手間が掛かる。オートバイに時間を割くという覚悟がいるのだ。Z1−Rでアメリカを走った時、大きな故障はなかったが、毎日だいたい百キロぐらい走ってから本調子になった。ちょっと出かける時に乗る、というわけにはいかない。
その日は決心が付かなかった。
折角ならば一番欲しいオートバイに乗ったほうがいい。数日考えた末に、僕は再び店を訪れ、昔から憧れていた、いわゆる“火の玉カラー”のZ1を注文することにした。
古いオートバイなので、エンジンを全てオーバーホールしなければならない。納車までには一ヶ月半から二ヶ月かかるということだった。僕のほうは年明けから日本を空けていた。納車の日をさらに伸ばしてもらって、この日いよいよ引き取りに行くことになった。
本当ならば、今日は軽く走りに行きたいところだ。しかし、今晩はこの冬一番の冷え込みになり、雪が降るという。日が暮れるまでに戻ってこなくてはならないのが残念だ。

 

天気も悪く、いい写真を期待できないので、ミニチュアモデルの写真で。
『少年マガジン Z・カスタムコレクション』の鬼塚英吉Z・。Z1なのでエンジンは違うが、ほぼこんな感じ。僕のはオイルクーラーはついておらず、もっとハンドルの位置は高い。マフラーは、ヨシムラの直管型にしている。実際のオートバイの写真はまたの機会に。


 

(c)copyright KENTA TAZAKI All rights reserved.