logo home 週刊田崎
疾走ペルー 最近の仕事
キューバ レシフェ
  トカンチンス カーニバル
       
  田崎健太Kenta Tazaki......tazaki@liberdade.com
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。
  2006..........2005..>> 12.>11.> 10.>.9.> 8.> 7.> 6.> 5.> 4.> 3.> 2.> 1..........2004

 

 

2005年2月20日


東京にいると、ちょっとした浮遊感を感じることがある。
日本に戻ってきて、テレビ等を見ると、構えることなく流れてくる言葉を理解できることにまずほっとする。しかし、すぐに日本だけで通用している浮ついた空気に居心地が悪くなる。
映画「ロスト・イン・トランスレーション」は、映画自体の出来はいいとは言いがたいが、外国人が日本に対して感じるであろう雰囲気をうまく描いていた。しばらく日本を空けていると僕もそうした気分を味わうことになる。
さて、今回戻ってくると、ライブドアの堀江社長の顔が長々と大写しになっていた。
どうも苦手だ。
肌が合わないというのではない。むかむかする感覚なのだ。
「ゲゲゲの鬼太郎」に出てきそうな、小賢しいお化けを僕は思い浮かべるのだ。金は持っていても、どこか“こずるい”感じで一目おかれることはない。口先の理屈は立つが、腕っ節はからきし弱い。
世の中の彼に関する興味は、彼の考えや、生き方ではなく、金だけ。人が寄ってくるのは、彼の金をあてにしているからだ。
何か戦後の日本という国のようだ。
彼自身は、物語のない、薄っぺらい人間だと思う。しかし、彼のところに集まって、媚びを売る人間はもっと底が浅い。彼は冷静にそれを見抜いて、あしらっている。
だから僕の“むかむか”は彼自身にではなく、彼を奉る世の中の流れに対してと言ってもいい。
テレビのチャンネルを少し変えたが、すぐに消した。うんざりするのは堀江だけではなかったのだ。
長く日本を空けて戻ってくると、テレビ番組の質の低さが目に付く(お笑い番組が多いとか、そういう問題ではない。“お笑い”自体の質が低い)。それは年々ひどくなっている。

 

評判が良かったので、今年のサンパウロのカーニバルの写真をもう一枚。


 

 

 

2005年2月16日


清潔なシーツの上で手足を伸ばすと、身体のあちこちに疲れがたまっていたことを実感した。陸路での移動が多かったため、脹ら脛などに軽い張りがあったのだ。
サンパウロに戻るとほっとする。
この街には友人もおり、身の回りのものも手を尽くせば東京と変わらぬものを手に入れることもできる。内陸部ほど太陽の光も強くない。
しかし、身体の疲れか癒えると、すぐに退屈になってくる。
僕の身体は、この都市で快適に過ごすためのものではない。見知らぬ土地を訪ね、物語ある人々の話を聞く。よりよい表現のために、未知のものを知りたい、感じたいという思いが沸いてくるのだ。
程度は違うものの、かつての探検家が奥地を目指したのと似ているのかもしれない。金銭を得ることを目的にした者も多かっただろうが、それだけではなく、安穏とした街で生活しているよりも、密林を分け入っているほうが自分の人生を送っているという感覚が得られた。それはある種の人間の奥底に眠っている本能なのかもしれない。
しかし、残念ながら今回の取材旅行は終わりつつある。
今晩の飛行機でサンパウロを発ち、LAで一泊し、日本に戻る。机の上で、集めた破片を組み上げて一つの作品を作り上げることが待っている。もちろん、それも一つの楽しみではある。ただ、冬の北半球に戻ること、その寒さを予想すると憂鬱になってくるのだが。

 

サンパウロ州内にある、日本人移住地があった村落にて。
街の中心地には薄汚れた教会があり、白い鳥が屋根に舞っていた。


 

 

 

2005年2月12日


サンパウロを出て、サンパウロ州の北東部の小さな街、かつて日本人移住地のあった場所を回っている。
都市というものは、距離が離れていてもどこか似ているものだ。サンパウロにいる限りは、日本から遠く離れているという気はしない。
ただ、都市を離れると話は別だ。サンパウロは雨が多く、それほど暑くはならないが、街を出て山を越えると、太陽の光は強くなり、気温は三十度を軽く越える。道路の左右には一面のサトウキビ畑、牧草地が広がっている。幹線道路から一本外れると、赤土の道となっている。その赤土の道をたどっていくと、小さな村に入っていく。
日本からの移民の歴史はもうすぐ百年となる。
今も日本人らしい名前のついた商店の看板が目に付く村もあるが、全く跡を残していない村もある。
ある村では、ほんの五十年前は、日本人が集まり、野球場まであった場所が、全て牧草地となっていた。かつての思い出は数本の大きな木が生えているだけになっていた。その木の下で、牛が草をむしっていた。
現在住んでいる人間にとって、過去などは意に介さない。彼らは、生きていくだけで精一杯なのだ。村に残った、日本人が住んでいたことをわずかに覚えている人が死ぬと、そうした場所があったことも、汗水をたらして働いた人たちのことも、風が通り過ぎたように、忘れ去られるのだろう。
時の流れというのは圧倒的なもので、人間の作ったものなどしがみついていないと、あっという間にばらばらに、形なきまで壊していくものなのだ。
僕は受け取った記憶を大切にしたいと思った。それは時の流れの中では、掌で水をすくうようなもので、指の間からぼろぼろと零れ落ちていくことは分かっていても。

 

ルビアッセアという街にて。かつてこの街は鉄道が通って栄えていたという。
線路は雑草で覆われ、駅は壁と屋根が残っているだけの廃墟となっていた。
太陽が落ちていくと、街を歩く人々の影が赤い土の上に長く伸びていた。
テキサスの農民描いた映画「デイズ・オブ・ヘブン」(天国の日々)を思い出すような長い影だった。


 

 

 

2005年2月5日


サンパウロのカーニバルは、リオと比べるとそう古い歴史があるわけではない。サンパウロに住む友人たちは、リオのカーニバルと比べて「規模も小さいし、見るべきところは少ないよ」と冷ややかな言い方だった。観光都市リオとは違う、商業都市サンパウロに住む人間の性格の差もあるだろう。
僕はそれほど期待しないで、知り合いと一緒に中に入った。
結果から言うと、期待しなかったせいか、リオよりそんなに劣っているとは感じなかった。
リズムに合わせて踊ることがカーニバルを見る時に一番いい方法だ。その他、写真を撮ることも悪くはない。
リオのカーニバルでは、28ミリレンズのコンパクトカメラで片手間に撮影したのだが、今回は愛機KissDigitalと望遠レンズを持参した。
望遠レンズでカーニバルを覗き込むと、レンズの向こうの人たちはサンバのリズムに感化して、何かを発散していた。僕はあまり枚数を撮るほうではないのだが、彼らに引き込まれて次々とシャッターを切った。
確かに世界中から人を呼び込む何かはある。毎年、毎日見たいものではないが、一度は見る価値があるといってもいいのかなとも思った。
ただ、気をつけなければならないのは、カーニバルに付き合うのは体力が必要だということだ。僕が会場に着いたのは、日付の変わる夜十二時前。ブラジル人の中に混じったので、覚悟はしていたが、結局ホテルに戻ったのは朝の九時半だった。

 

カーニバルの写真といえば、期待されるのはこういうものだろう。男性読者のために。


 

 

 

2005年2月4日


僕の商売というのは誤解されやすい。年に地球を三周以上の移動をしていると、話すと羨ましそうな顔をされることがある。
確かに移動の多い人生を送ることは、僕が選んだ道であり、嫌いなことではない。
人生というものは何かを得ると何かを失う。自由な人生を選んだことで、世間的に真っ当であるとされる人間の人生と比べれば、色んなものを失っている。失ったものと、得たもの、その天秤が後者の方に傾いていれば、いい人生を送っていることになるだろう。いちおう、今の僕もそういう人生ではある。
ただ、最近は失ったものの大きさを噛みしめることもある。
さて。
今回、カーニバル期間中にブラジルに行くことになった。何人かの知り合いに「カーニバル? いいな。行ってみたい」と言われた。僕は心の中で、少々苛立ちながら「そんな時間はないと思うよ」と言葉が終わらないうちに、早口で切り替えした。
取材旅行の責任は重い。それも僕の場合は現地での協力の他は、ほとんど一人でこなしている。異国とはいえない慣れた土地が多いが、頼れるのは自分だけだ。その辛さをを敢えて見せないだけなのだ。
そんな棘のある言葉が口から出そうになったが、抑えた。僕も多少は大人になった。
実際のところ、サンパウロでやらなければならない仕事は多く、この街に到着してからほとんど出かけることもなく、地味な生活をしていた。
ところが、今日のことだ。
知り合いから電話があった。カーニバルのチケットがあるので一緒に行かないかという。それもカマロッチだ。カマロッチとは、個室を貸しきるものだ。部屋には食事や飲み物が用意されている。そうそう行けるものではない。
三年前にリオのカーニバルに取材で行ったときは、期待していた分、それほどではなくてちょっとがっかりとした。しかし、カーニバルという言葉の響きは仕事熱心な男の人の心さえもぐらつかせる。
僕は少し考えて「行きます」と答えた。
端からは気楽に見られるだろうな。こんな風だから、僕の人生は誤解されるのだ。ただ、面白そうなところに惹きつけられるのは物書きとして当然のことだ、と自分を納得させた。

 

直接、サンパウロのカーニバルが行われるアニャンビの外で知り合いと待ち合わせた。
貸し切りバスが停まっていて、色とりどりの衣装を身に着けた人々が歩いていた。


 

 

 

2005年2月2日


先週、チュニスの大会実行委員会にIDを取りに行った時の話だ。
女性スタッフの一人は、僕が初めてチュニジアを訪れたということを聞くと、「それは残念。スファックスの街は見るところはないわ。日本代表が勝ち抜いて他の都市に行ければいいわね」と首を振った。
確かに……スファックスには城壁都市メディナもあったが、その中は廃墟のように荒れていた。欧州の人が惹きつけられる美しい海は、港湾施設に占拠されていた。チュニジア第二の都市とはいうものの、魅力のない商業都市。人間に喩えるならば、よれよれのトレンチコートを着た風采のあがらぬ、定年間近の男というところだろうか。
日本代表は予選落ちという結果。僕のチュニジア滞在は、スファックスとチュニスの空港近辺で終わり、チュニジアの魅力に触れる前に、パリに向かうことになった。
ただ、チュニジアの人々はみな親切だった。本当にみなが良くしてくれた。時間がある時にでも再び訪れてみたい国である。
観光客溢れるパリで二泊、冬物最後のバーゲンが行われている街を後にした。パリからサンパウロに向かう飛行機はほぼ満席だった。それも仕方がない。僕が向かっている国、ブラジルでは、今週末からカーニバルが始まるのだ。

 

スファックスのメディナの中にて。門の中に入ると瓦礫の山で、野良猫が塵を漁っていた。


 

(c)copyright KENTA TAZAKI All rights reserved.