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  田崎健太Kenta Tazaki......tazaki@liberdade.com
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。
  2006..........2005..>> 12.>11.> 10.>.9.> 8.> 7.> 6.> 5.> 4.> 3.> 2.> 1..........2004

 

 

2005年12月31日


今年は本当に移動の多い一年だった。思い返せば、年明けの二日からパラグアイへと出発した。そして、大晦日の今日、倶知安にいる。
寒いところが大嫌いな自分が、先週はスウェーデン、そして北海道と東京よりもずいぶん寒い場所ばかり、行く羽目になっている。今回も、もちろん仕事である。
今日はこれから札幌に向い、一泊して明日東京に戻る。今年一年のことを振り返る暇もなく、2006年に突入していく−−全力で走り続けた2005年らしい幕切れではある。

 

倶知安駅にて。


 

 

 

2005年12月28日


昨日は、大阪まで日帰り出張。今日は、今年最後のフットサルである。
昨年末、ハンドボールの田場裕也選手と僕たちがフットサルをしたことがあった。それを聞いた中川善雄選手や宮崎大輔選手たちが、自分たちも一緒にやってみたいという話になった。
彼らも練習前のアップで、ボールを蹴っている。サッカー経験者と試合をしてみたいというのだ。
田場選手、ペ・イ・モンのK氏、僕に加えて、昨年ポルトガル三部にいた清田孝司、ジェフの要田勇一選手等を呼んでチームを作り、中川善雄選手たちの大崎電気のチームと試合をすることになった。
結果は……。
なんとか辛勝。普段からフットサルをやっているという意地を見せることができた。ただ、身体的能力はやはりすごい。いつもは通るパスが、彼らの場合、足が届いてしまう。ハンドとフットサルのコートは同じようなものなので、プレッシャーのかけ方が上手い。かなりエキサイト、そして楽しい一日だった。

 

相手チームの永島英明選手と愛犬。
彼がキーパーをしている時に、軽く投げたボールが鋭いシュートになった…。本当に軽い腕の振りで投げたので、僕たちのチームのキーパーは慌ててキャッチしなければならなかった。元旦に放映される筋肉番付でも宮崎大輔選手が活躍したようだが、ハンドボーラーの能力、恐るべしである。


 

 

 

2005年12月23日


三泊五日の出張から今日帰国した。
今回のマイル加算で、スターアライアンスのプラチナポイントが十万を超えたので、四月からはダイヤモンドサービスとなる。
先月乗った某V社のマイレージが一ヶ月経ってもまだ加算されていれば余裕をもって十万を超えていた。この航空会社は、ビジネスクラスの座席に乗務員と仲の良さげな客が多い。話している内容を聞いていると、どうも関係者を優先してアップグレードさせているようだった。サービスはおざなり、古い機体、そして提携マイレージの加算は遅い。日本への路線が廃止されることも、会社が傾くのも頷ける。
それはさておき、ダイヤモンドサービスである。
三年前から五万ポイントが対象となるプラチナサービスにはなっていた。ただ、それでも五万をやっと超えるぐらいで、ダイヤモンドサービスの十万も加算されるとは、どんな人間なのかと思っていた。 確かに今年は飛行機に乗っている。ブラジル往復が一回、ブラジルと欧州を含んだ世界一周が二回、欧州一回、アメリカ一回、今回のストックホルム往復、国内でも沖縄二回、福岡一回、四国二回、大分一回。 その後遺症とも言うべきだろうが、帰国してしばらくは飛行機の夢にうなされる。飛行機に乗り遅れたり、搭乗口に行くバスの中に荷物を置き忘れたり、という夢をよく見る。
最近で最も変わった夢は、こんな風だ。
飛行機に乗ってみると、急に切り立った崖になっていて、ロッククライミングのように小さな穴を辿って座席まで昇っていかなければならない。かなり危ないと思っていると、上からスーツを着た男が落ちていった−−。
また、そうした夢を見そうである。

 

ストックホルムの空港にて。


 

 

 

2005年12月21日


今回のストックホルム滞在は、今単行本の取材のためである。それに関連した雑誌の記事にも使うつもりではあるが。
初めての街を訪れる時はいつも、街を一人で歩いてその街の空気を感じるようにしている。しかし、今回は、〆切の近い原稿を持ってきてしまった。昨日はホテルと隣接するショッピングセンターの周りを歩き回るだけだった。
今日、取材が終わったのでストックホルムの旧市街地の方に足を伸ばしてみた。空気が乾いているので最初はそれほど寒さは感じなかったが、しばらくすると手足の先端、頭のてっぺんが鈍く凍えてきた。やはりこの街は寒い。
そして、日が落ちるのが早い。夕方の三時半には日は落ちていた。夕方の四時で、日本で言うならば八時ぐらい、人々が帰宅を急ぐ雰囲気になっていた。思い返してみれば、到着したのも夜の十時ぐらいだった。ブラジルならばその時間から食事を始める人も珍しくない。ところが街の光は消えて、深夜のようだった。太陽の少ない国はどうも寂しい。

 

広場には、クリスマスを控えて屋台が出ていた。これはチョコレートを当てるルーレットである。


 

 

 

2005年12月19日


欧州に行く時は、時差の関係で長い一日となる。それに加えて、昨日、日帰りで大分まで行ってきたことでさらに強行軍になってしまった。
夕方に大分から帰宅。原稿を書き、荷造りが終わったのは、今朝の七時になっていた。成田エキスプレスの中で眠り、成田からコペンハーゲンまでの飛行機の中でも離陸前から眠りに落ちていた。
今では誰も信じてくれないが、かつては不眠症気味だった。それが変わったのは、一年間南米大陸を旅してからだ。最長で五十時間乗ったこともあり、二十時間程度バスに揺られることはそれほど苦にならなくなった。当然バスの中で眠らなくてはならないわけである。エアコンの効いていないバスで四十度の中を走り抜ける経験をしていれば、飛行機の中では熟睡できる。
今回の目的地はスウェーデンである。 スウェーデンと言えば、僕が子供の時に好きだった岩波少年文庫の「名探偵カッレくん」の作者リンドグレーンの出身地である。
その他、高校生の時、初めてのステージとなった文化祭でもスウェーデンのバンドの曲を演奏した。当時、僕の組んでいたバンドは他の高校の生徒が加わっていたので、文化祭には出ることが出来ず、急遽同級生とバンドを組むことになったのだ。自分のバンドではパンクやニューウェーブ(80年代を感じさせる単語だ)の曲をやっていたのだが、文化祭にはキーボードを担当していた同級生に押し切られて、ハードロックをやることになった。当時の関西は、ラウドネスやアースシェイカー、ラジャス、マリノ、Xレイ等、ハードロックが席巻していたのだ。僕は多少でも好きだったスウェーデンのヨーロッパの曲を入れるように頼んだ。ヨーロッパは後に「ファイナル・カウントダウン」というヒット曲を出すが、デビュー曲の「セブン・ドアーズ・ホテル」は美しい旋律の曲だった。かなりコピーには手間取った−−というか、結局ギターソロは完全にコピーできず誤魔化したのであるが。
その他、リサ・エクダールやソフィー・セルマーニは好きな歌手であり、ipodに入れて聞いている。 さて。
コペンハーゲンで飛行機を乗り換えて、スウェーデンの首都ストックホルムに到着した時には夜中になっていた。 空港を出ると、道路が白く凍っていた。空港からタクシーに乗ると、ふと、ジャームッシュの映画「ナイト・オン・ザ・プラネット」を思い出した。あれはフィンランドが舞台だったが、こんな感じだ。
僕にとって初めての北欧の国である。

 

翌日のストックホルム。正午近いのに太陽の光は弱々しい。
先日購入した、SANYOのMPEGムービーカメラ、C40で撮影。動画が撮れるということで購入した。画質には少々不満もあるが、何より小さくて軽い。主に雰囲気を残しておく映像メモとして使おうと思っている。


 

 

 

2005年12月15日


20日に発売される『スポーツイベント ハンドボール』で田場選手のことを書いている。ハンドボール界ではイベントと呼ばれている。この雑誌は名前の通り、ハンドボールの専門誌である。僕はサッカーに関して何年も原稿を書いているが、専門誌で書くことはほとんどなかった。それは理由があるわけでなく、たまたま縁がなかっただけだが。そんな僕がハンドボール専門誌で書くのだから、不思議なものである。
イベントの野村彰洋編集長には、これまでずいぶん世話になった。バーサスやアエラで原稿を書くために、過去のことを調べなくてはならなかった。この世界では新参者である僕に野村さんは資料を探してくれ、いろいろなことを教えてくれた。 野村さんと僕は一つしか年が変わらないのだが、落ち着いており、もっと年上に感じられる。その物静かな野村さんが、ハンドボールについて話していると、情熱があふれ出てくるのだろう、表情が変わる時がある。そうした彼の情熱がこれまで雑誌を支えてきたのだろうと、初対面の時から好感を持っていた。
今回はいつもの恩返しというわけでもないのだが、ブラジルからの帰りにフランスに寄るので原稿を書かせてもらうことにした。『VS.』十月号で書いた「海外組」の原稿の続きといってもいい。怪我で調子に乗れない、彼の近況を描いている。

 

今回は久しぶりに紙面で使う写真も自分で撮った。
田場選手と愛娘アンジェの素晴らしい笑顔の写真はイベントの紙面で見て欲しい。
これは未使用写真。夕暮れのモンペリエ駅にて。


 

 

 

2005年12月10日


いつものことだが帰国してからしばらくは、仕事に追われる。今回は十二月の忙しさがそれに加わった。朝まで原稿を書き、昼過ぎに取材及び打合せという、非常に地味な生活をしていたが、ようやく一息ついた。
追われていた仕事の一部が、紙面となって発売される。今月十五日、同じ日に発売される、『VS.』(バーサス 光文社)と『Number』(文藝春秋)である。
バーサスでは、三浦知良選手がブラジルでプレーした全てのクラブを回ってきた。
これは本当に大変だった。サンパウロにあるジュベントス、そしてサントス。この辺りまでは全く問題はなかった。しかし、カンバラにあるマツバラへは長距離バスしか手段がなかった。サンパウロ州はサンパウロを中心に放射線状に幹線道路が広がっているのだが、横に移動するのはさらに厄介だった。
ジャウーへと移動するため近距離のバスを何台も乗り継がなくてはならなかった。また、マセイオへはサンパウロから飛行機で三時間強。機内で病人が出たため途中のベロオリゾンチで緊急着陸、結局到着まで五時間近く掛かってしまった。彼の足跡を駆け足で辿ったが、様々な場所でプレーしたことを思い知った。それが彼の強靱な精神力を養った。
ナンバーでは、ソクラテスのインタビューを書いている。彼が選んだブラジル代表はかなり面白い。
双方、是非一読を。

 

マセイオのフランス海岸にて。
昔、三浦知良選手はこうしたバギーを借りて、走り回っていたという。
冬の日本にいると、この太陽の下にいたことが遠い昔に感じられる。数週間前のことなのだが。


 

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