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  田崎健太Kenta Tazaki......tazaki@liberdade.com
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。
  2007.........2006..>>12 > 11 > 10 > 9 > 8 > 7 > 6 > 5 > 4 > 3 > 2.> 1..........2005

 

 

2006年5月23日


ブルースギタリストのスティービー・レイボーンはかつて「最初のアルバムは、それまでの人生をすべて掛けて作るものだ。二枚目以降は仕事になる」と言っていた。

一冊目の本である『cuba ユーウツな楽園』の見本が届いた時、嬉しくて仕方がなかった。その感激が本が出る度に薄れつつあることは事実だ。ただ、今回の『W杯ビジネス三十年戦争』は特別である。

トップページに書いたように、この本の取材は95年から始まっている。当時、僕は週刊誌で働いていた。週刊誌には、政治、経済、野球、芸能、事件などその分野に詳しい先輩がいた。しかし、サッカーに関してはJリーグ開幕と同時に始まった。担当を任された僕は、自分で人脈を作っていくしかなかった。僕にとってはまだ無我夢中の時期だった。

将来退社して物書きになることを漠然と考えていたが、サッカーなどスポーツのことを書くことになるとは思ってもいなかった。

あれから十年以上が経つ――。

取材を重ね人と出会い、僕は物書きとして生活できている。その過程がこの本の中にある。僕にとって、最初以上に大切な本であるのだ。


今日届いた見本。落ち着いた表紙となっている。


 

 

 

2006年5月12日


天気のいいゴールデンウィークは仕事に追われ、その波が終わると天気が崩れた。なかなかうまくいかないと嘆いていたら、今日は天気が良い。そして、大崎電気の体育館で行われている日本代表合宿を取材に出かける日だった。僕は久しぶりにZ1のエンジンを掛けて、埼玉のみずほ台に向かうことにした。

今週の火曜日に、ハンドボール日本代表監督のイビツァ・リマニッチ氏が就任記者会見があった。記者会見に代表候補選手が集められ、そのまま合宿に入っている。
ハンド男子日本代表にとっては、言い訳の出来ない戦いが始まっている。
オリンピックアジア予選は来年九月に豊田市で開催されることになった。少なくともバンコクで行われたような極度に悪質な審判の買収はないだろう。
そして、プロフェッショナルな監督がやってきた。
次は選手たちが結果を出す番である。

この日前半はキーパー練習、後半が試合形式の練習だった。練習を見る限り、これまでの僕が見てきた日本の練習と違ってきびきびとしており、練習の意図が傍目からも感じられた。
ただ、その練習の意図を理解している選手と、そうでない選手の区別もなんとなくついた。
今回の代表候補は、数人の若い選手をのぞけば新味のないものだった。これから代表に相応しい選手が残り、そうでない選手は入れ替えられることになるだろう。
中川、宮崎、豊田といったこれまでの中心選手に加えて、富田のような才能を感じさせる若い選手も加わっている。最大のライバルである韓国に選手個人の才能は負けているとは思わない(ペクという軸の存在は大きいが)。
後は、代表に対する誇りの多寡、そして勝利への執念である。
五輪予選は、2007年9月1日から10日となっている。是非とも多くの人が足を運んで選手たちを後押して欲しい。僕は来年の九月を楽しみにしている。


九日の記者会見。一番右が新監督。
話してみると気さくな人だった。もちろん「いい人」よりも「結果を出す人」が重要ではある。練習の雰囲気は良く、現段階では期待がもてそうだった。
なぜか中央の東俊介選手は仏頂面。


 

 

 

2006年5月7日


今年のゴールデンウィークは旅館で過ごすことになった。
といっても、温泉などでのんびりと過ごしたわけではない。
単行本『W杯ビジネス30年戦争』の仕上げのために、新潮社の旅館に缶詰となっていたのだ。
故開高健さんが半年滞在して一枚も書かなかった−−などという伝説がある旅館であるが、開高さんと違って吹けば飛ぶような物書きである僕は当然、真面目に仕事をしていた。
単行本は体力勝負である。原稿用紙で三百枚を超える分量を書き上げ、何度も見直す。気になる部分を根気よく書き直していく。完璧なものはあり得ない。時間を睨みながら、出来る限り良いものを作り上げていくことになる。

今回の単行本は参考資料が多く、確認事項が多かった。また、ぎりぎりまで取材をしていたことで、入稿しながら直していくという、本来はしてはならない進行となった。
僕は旅館で、良い原稿になるようにひたすら校了紙をめくっていた。原稿を書くことは孤独な作業である。その重みは作者が耐えるものだ。
しかし、一人ですべてができるはずもない。きつい進行を担当の加藤君、校閲の方などが支えてくれた。それをひしひしと感じた。
昨晩は、ほぼ徹夜だった。昼すぎに直しを入れた校了紙を手渡し、布団に倒れ込んだ。しかし、頭が冴えてあまり眠れなかった。国内にいながら時差呆けのような状態になっている。今晩からは、多少ゆっくりと眠ることができそうだ。


 


 

 

 

2006年5月1日


先月の後半は、『ジーコジャパン 11のブラジル流方程式』のプロモーションのために動いていた。
二十四日にはテリー伊藤さんがパーソナリティを務めているニッポン放送の「のってけラジオ」にゲスト出演することになった。
ラジオは、「何年か前に杉田かおるさんと三人で食事したことがあったね〜」なんていう昔話から始まった。
テリーさんとの付き合いは古い。もう十数年前、まだ週刊誌で働きだしたばかりの頃に遡る。最初は新春特大号のために来年ブレイクするアイドルを予想−−などという良くある記事だった。まだ演出の仕事がメインだったテリーさんに話を聞きたいと思い、連絡を入れた。
それから度々仕事を一緒にするようになった。小沢一郎氏との対談、総選挙の時に選挙区を一緒に回ったこともある。その時、すでに彼の顔は売れ始めていたが、関東近辺を広く回ったので混んだ電車で移動しなければならなかった。テリーさんはそういうことに全く文句を言わなかった。何か面白いことをやることに彼は徹底する人間であると思った。そして、何度も食事に出かけて、色々な話をした。
テリーさんから学んだことがある。
それは、スポーツであろうが政治であろうが、人間が動いているところでは「エンターテインメント」が成り立つになるということだ。実際に彼は北朝鮮さえ“お笑い”にするようになった。
「のってけラジオ」では僕もテリーさん流に、サッカーを面白く語ってきた。ここに書いているのとちょっと違う僕だったと思う。

 

ラジオではブラジルでの話が中心になった。ブラジルは“お笑い”の宝庫である。写真はサントスの海岸。


 

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