logo home 週刊田崎
疾走ペルー 最近の仕事
キューバ レシフェ
  トカンチンス カーニバル
       
  田崎健太Kenta Tazaki......tazaki@liberdade.com
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。
  2007.........2006..>>12 > 11 > 10 > 9 > 8 > 7 > 6 > 5 > 4 > 3 > 2.> 1..........2005

 

 

2006年11月16日


世界各国様々な国に出かけ、スペイン語やポルトガル語などを話すので、昔から外国 語に興味があり、得意であったと思われがちである。
確かに、英語は不得意な教科ではなかった。ただ、同じ高校に通っていた鏡リュウジ のように、ずば抜けて英語ができたわけではない。普通に受験のための英語を勉強し ていただけだ。どちらかというと、熱心とはいえない生徒だった。
そもそも初めて外国に出たのも遅かった。
大学では国際法のゼミに入っていた。国際と着く法律を学ぼうとする生徒には、外国 人留学生、帰国子女、留学経験者が多かった。大学三年生の段階で外国に行ったこと がないという生徒は僕を含めてほんのわずかしかいなかった。
大学三年生の終わり、春休みを使って初めての海外旅行に出かけた。
僕にとっての最初の外国は、バンコクだった。バンコク、バングラデッシュのダッカ を経由して、カルカッタへ。ビーマン・エアラインのこの路線がインドに行くのには 一番安かったのだ。
初めての国外旅行の目的地としてインドを選んだ理由は特にない。強いて言うならば 、ブライアン・ジョーンズが、『ペイント・イット・ブラック』でインドの楽器シタ ールを弾いている写真が頭に残っていたからだろうか。インドでシタールを習うつも りだったので、吉祥寺でシタール演奏の基本だけは学んでいた。
バラナシーというガンジス川のほとりの街で、ラビシャンカールの弟子の弟子という 男にシタールを習うことになった。楽器屋の上に住まわせてもらい、一日八時間レッ スンを受けていた。それ以外の時間はガンジス川をぼんやりと眺めていた。そして、 もつと世界を見てみたいと思うようになった。
インドから帰国すると、大学を四年間で出られないことが判った。一年生と二年生の 科目選択の抽選番号が極めて悪く、いわゆる楽勝科目をほとんどとることができなか ったのりだ。留年が決まった瞬間から、僕は猛烈にアルバイトを始め、お金を貯めた 。塾の講師、家庭教師、レンタカーの配送、バーと四つ掛け持ちをしていたこともある。
四年生の夏には友人と二人で、アメリカ大陸に渡った。イージーライダーのようにオ ートバイでアメリカ大陸を旅するつもりだった。
当時、カリフォルニア州ではヘルメットをかぶらなくてよかった。あまりに気持ちが 良かったので二人乗りしていた時、後ろに乗っていた友人がシートの上に立ち上がり 両手を広げた。
すぐにサイレンが鳴ってパトカーに止められた。警官は「ここは公道だ。サーカスみたいなことをしないように」と注意したが、見逃してくれた。
二百キロを出して、海岸沿いのハイウェイを走った。ノーヘルでそんなにスピードを 出すと、あまり気持ちが良くないことを知った。
チェーン店で大食いに挑戦したことがあった。店員が、挑発的な目をしていたので、とにかく食べまくった。多くのメニューを全部食べられるというものだったが、ほとんど食べ尽くした。しかし、あまりに脂っこくて後で吐いた。アメリカ人は太るはず だと思った。
テキサスでは全く僕の話す英語がほとんど通じなかった。カワサキの古いオートバイ 、マッハを使って、ドラッグレースをしている面白い奴と会った。僕の乗っていたカワサキのZ1Rは、マフラーを外して直管にしていた。派手な音をまき散らせていたせいか、地元の不良たちの乗るコルベットにつけ回されたこともあった。
友人のオートバイのエンジンが壊れた時、あるオートバイショップの人間は、ジェッ トスキーのエンジン用のピストンを削って入れた。
フロリダではオートバイ屋で修理を頼むと後回しにされ、結局断られた。明らかに人種差別されていた。日本のパスポートを見せても、見たことがないと言ってビールを 売ってもらえないこともあった。頭に来たので、オートバイのエンジンを掛けて、店の前で何度もアクセルをふかした。
そんな僕たちを見かねて、長距離トラックの男たちがビールを分けてくれた。男は「 俺もオートバイが好きだ。今もトラックの後ろにハーレーを積んでいるのだ」と目配せした。
オートバイに乗っていると、多くの場所でアウトロー扱いされる。また、ハーレーダ ビッドソンに乗るのは白人で、黒人達はカワサキのオートバイを好むことを知った。 分の知らない面白い世界が沢山あることが、はっきりと分かった。
人間は働かなければ、食べていけない。僕は大学を五年間かかって卒業し、出版社に 就職した。バブル景気の最後で、まだ採用人数が多かった時に滑り込むことができた。
スペイン語を勉強しはじめたのは、入社して二、三年経ったころだ。 NHKのラジオ講座を録音して繰り返し聞いた。ポルトガル語は、ブラジルに滞在し ている間に覚えた。すべて使えるようになったのは旅の中である。

言葉が使えるからこその、トラブルも起こる。 今回、ハバナのあるバーの男たちと仲良くなった。その店に行き、モヒートを頼むと 、酔っぱらいの男に下田が絡まれた。しつこいので僕が「出て行け」と言うと、男が何かを言い返した。
それを聞いて、黒人のバーテンダーは突如怒り、バーを飛び越えてようとした。もう一人のバーテンは、刃渡り三十センチ以上あるナイフを、手に持って身構えていた。 酔っぱらいは大きく手を挙げて、飛びかかろうとしたが周りの男たちに止められて引 き上げていった。仲間の襲撃を恐れたのか、バーテンたちは一気にシャッターを下ろ した。いきなりの店じまいである。僕の言葉が引き金になって大騒ぎになってしまっ た。

机の前で座って、おとなしく勉強するのは僕の性に合わない。転げ回り、擦り傷や痣 を作りながら言葉、人生を学んできた。そして、これからも転がっていくのだろう。 二十歳まで国外に出たことのなかった僕が、今も世界中を彷徨っている。不思議なも のだと、ふと思うのだ。 明日の飛行機でパリを出て、日本へ向かう。久しぶりの日本である。


ルマンの移動遊園地で売っていた、リンゴ飴。


 

 

 

2006年11月12日


昨日は慌ただしい一日だった。サンパウロからミュンヘンを経由して、パリに着いた のが、夕方の17時前。荷物を引き取って、タクシーでモンパルナス駅へ。18時のTG Vに乗って、19時にルマン到着。ホテルに荷物を置いて、20時からルマン対パリサン ジェルマンの試合に出かけた。
まるで日本にいるかのようなスケジュールだ。
今日は、日曜日。
十一月に入ってこの国は急に冷え込んだのだという。久しぶりの冷たい空気を肌に感 じながら、ルマンの川辺をゆっくりと散歩。
フランスでは、週末は多くの店やレストランが閉まっている。行く場所がないので、 サッカーやラグビー、ハンドボールなどの試合に客が入る。また、家族や友人たちと 語らう時間もできる。一方、日本では年中無休の店は多く、とくに休日の繁華街は騒 がしい。日本の便利さもいいが、週末ぐらいはのんびりと過ごすのも悪くない。この 国の静かな週末の中で思うのだ。


ルマンにて


 

 

 

2006年11月10日


日本を出て四週間になろうとしている。
ここ数年、僕の長期取材は世界一周をすることが多い。南米大陸と欧州をまわって、 だいたい三週間。三週間というのが、戻ったときに日本のリズムにすんなりととけ込 むことのできる限界だと僕は思うようになっている。今回は帰国した後が心配だ。

さて。
ブラジルの滞在はかなり密度の濃いものだった。最後の三日間は、カメラマンの西山 幸之氏らに手伝ってもらい、州の資料館に籠もって三十年前の新聞記事を探していた 。
その資料室は、閉架式となっており、リストから番号を書き出して、月ごとの新聞を 出してもらう形になっていた。
「何月から探してみようか」
リストを見ながら、普段から声の大きい西山氏がいつものように僕に話しかけた。す ると、眼鏡をかけた白人が小走りで近づいてきて人差し指を口に当てた。
「ここでは小さな声で話すように」
この資料室の主任のようだった。やせ形で、いかにも神経質そうな顔。ブラジル人と いうイメージではない。図書館、資料室で働く人間というのは、どこの国でも几帳面でなければやっていけないのだろう。
この資料館では、コピーした縮小版ではなく、綴じた現物を貸し出してくれる。三十 年前の新聞紙は、端が変色している。ページをめくると、紙の破片がこぼれ落ちる。 注意しないと、裂け目の入った場所から、破れてしまうこともある。
僕たちは資料室に入った時から、“主任”に目をつけられたようだ。
東洋人の顔をして、日本語で話している僕たちは確かに怪しい。何をしに来たのかと 思われても不思議はない。僕が新聞を見ていると、“主任”が近づいてきた。
「見終わったら、きちんと整えてくれないと困る」
僕のやり方が雑に映ったようだった。
二日目になると、主任は僕たちが熱心に何を探しているのか気になったのだろう、サ ンパウロ在住で日本語よりポルトガル語の得意な西山氏と多少会話するようになった。
三日目、僕は一人で資料室に行った。調べ物が終わり、帰ろうとする時、“主任”は 「じゃあまた」と小さな声で言い、親指を立てた。
この資料室でようやく存在が認められたようだ。ただ、今晩僕はこの街を出なければ ならない。
温かい南半球から、冬になりつつある北半球へ。気の進まない旅路である。


三十年以上前の新聞記事。ここには宝物が眠っている。


 

 

 

2006年11月7日


『W杯ビジネス三十年戦争』を取材している時に、何度もある男の名前が出てきた。 僕の本は、アベランジェやホルスト・ダスラー、電通の高橋治之氏たちが主人公である。高橋氏も、一般な知名度は高いとはいえなかったが、この男の名前はさらに知られていない。
しかし、アベランジェのFIFA会長選挙の鍵を握っていた男であり、七十年代から ブラジル、いや全世界のサッカービジネスを動かしてきた。
日本の新聞雑誌で彼の名前が出たことはないのはもちろんだが、ブラジルでも、七十年代にいくつか記事を見つけることができる程度。彼の面影を知ろうにも、三十年ほ ど前に撮影された写真があるだけだった。本当の陰の人間と言ってもいい。
今回、断られることを覚悟して、その男に取材を申し込んでいた。ところが、意外に も「受ける」と返事をもらっていた。 ところがブラジルに着いて連絡をとってみると、「取材は嫌いだ」と渋り始めた。こちらのジャーナリストは「彼は取材に応じるなんて考えられない」とも言われた。
折角来たのだからと、彼をなだめすかして、今朝リオでようやく会うことができた。 今回の記事は、光文社から新しく出る『EX35PLUS』 (12月1日発売) に書くことなる。 楽しみにして欲しい。


昨日、空からのリオ。雲が少なく天気がいい日、リオの空港に下りる時の風景は何度 見ても飽きない。
この街は空気まで青く見える。遠くから見ると、本当に美しい街だと思う。


 

 

 

2006年11月5日


僕にとって今年二度目の夏が始まった。 サンパウロでは今日から夏時間が始まり、時計を1時間進める。 夏の“初日”である今日、サンパウロ州郊外のアララクアラからサンパウロに戻って きた。 アララクアラには、フェホビアーリアというクラブがあり、旧知の納谷伊織が所属し ている。彼のプレーを見るために出かけたのだが、残念ながら彼は試合には出なかっ た。 フェホビアーリアはサンパウロ州の三部リーグに所属するクラブである。ブラジルに 来ていつも思うのだが、三部のクラブでも、観客の熱気があり、驚くほど上手い選手 がいる。ルマンの松井大輔の同僚であるグラフィッチもこのクラブでプレーしていた 。 カップ戦の準決勝ということで、街の人々が古いスタジアムに駆けつけて、声援を送 った。試合はホームのフェホビアーリアが試合終了間際にペナルティを得て、1対零で勝利した。


今回の取材旅行では、リコーのGRデジタルを使っていたが、先日可動式になっているレンズが途中で止まってしまい、撮影できなくなってしまった。これが最後の一枚。
銀塩カメラのリコーGR1でも同じようなトラブルになったことがある。このシリー ズの構造的な問題なのかもしれない。使い慣れていたカメラなので非常に痛い。今後はサブカメラとして持ってきたXactiを使うことになる。


 

(c)copyright KENTA TAZAKI All rights reserved.