logo home 週刊田崎
疾走ペルー 最近の仕事
キューバ レシフェ
  トカンチンス カーニバル
       
  田崎健太Kenta Tazaki......tazaki@liberdade.com
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。
  2007.........2006..>>12 > 11 > 10 > 9 > 8 > 7 > 6 > 5 > 4 > 3 > 2.> 1..........2005

 

 

2006年9月29日


九月が終わろうとしている。今月はあわただしい一ヶ月だった。まずは沖縄。その後、取材で静岡市を二度、大阪に一度訪れている。それ以外に出版カップというサッカー大会で静岡の裾野。合間に12月にライブを行う“荒木町ハッピークラブ”というバンドのためにスタジオ入りを二度−−仕事だけではないが追いまくられていた一ヶ月だったのだ。
第三回となる出版カップでは、新潮社チームの一員として参加、七チーム中で優勝(僕は国外出張に出かけていて参加できなかったが、第一回も優勝しているので二度目の戴冠)。なぜか得点王まで取ってしまった。
僕のことを知らない人は「それほど上手いわけでないけれど、とにかく点を取る」と言っていたらしい。
その通り。
中学生の時から、良く点は取っていた。こぼれ球を押し込んだりと、綺麗な得点が少ないのが僕の特徴である。大学生の時、体育祭で三位になったことがあるが、その時も中盤の選手ではあったが点を取った記憶がある。

さて。
四月と八月に一週間程度、フランスを訪れているが、それ以外はずっと日本で仕事をしている。三月までの月に一回は国外出張に出かけてたのが嘘のようだ。もちろん日本は好きな国であるのだが、じっとしているのは性に合わない。そろそろ長い旅に出たい−−そんな考えが頭をもたげてきた。


97年から98年にかけて、南米一周をしていた時の写真。ボリビアの首都ラパスにて。とにかく貧乏な国だった。街を歩いていると五分に一度ぐらい、浅黒い顔をした靴磨きの少年から「磨かせてくれ」と声をかけられた。どうにも居心地の悪い国だった。


 

 

 

2006年9月2日


ワールドカップ後に、幾つかの連載が終わり時間が出来るだろうから、一、二ヶ月フランスにでも行ってこようかと思っていた。
フランス語は多少日常会話はできるようになったが、もう一歩踏み出すには、それこそ言葉をシャワーのように浴びなければならない。ポルトガル語を覚えた時もそうだった。サンパウロに住んで、二、三週間した後、それまで耳から通り抜けていた言葉が突然、意味を持って立ち上がりはじめたことがあった。言葉の習得は慣れの部分が大きいのだ。
ところが−−。
有り難いことではあるのだが、八月になっても仕事がとぎれず全く身動きが取れなくなってしまった。
あまりの忙しさに、先週土曜日に行われたハンドボール日本代表中川善雄選手がNPOを立ち上げたパーティには顔を出すことができなかった。

さて。
前回のハンドボールの田場選手の話の続きである。
ハンドボール日本リーグの今季のスケジュールが発表になった時、僕はめまいがした。
関東での試合がほとんどないのだ。
昨季は開幕戦を横浜で行い、それなりに演出があった。ところが今季は開幕戦はもちろんだが、関東圏での試合がほとんどない。
日本はフランスなど比べると、情報の一極集中が激しい。メディアは東京に集中している。メディアに取り上げて欲しいのならば、彼らが足を運びやすい場所で試合を行うことが必須条件となる。昨年、バレーボールのVリーグは東京体育館で試合をしており、僕も足を運んだ。
ところがハンドは…埼玉は埼玉なのだが、八潮市の体育館にしろ、富士見市の体育館にしろ、かなり不便な場所にある。僕が試合を見に行く時は、ほぼ一日潰れることを覚悟している。
試合の内容はともかく、体育館は土足不可、とてもこの国のトップリーグを運営している雰囲気ではない。インターハイに毛が生えた程度というのが正直なところだ。観客をいかに楽しませるというよりも、運営していくかで精一杯なのだ。
わざわざ不便な場所まで足を運んだ人にとっては、がっかりするだろう。
田場選手が沖縄のクラブを立ち上げて、日本リーグに加入しても、利益を生み出す形になっていないと書いた。その原因の一つはこの運営の問題だ。
日本リーグの運営はプロの手によるものではない。プロでないから、許されるか−−二十年前ならいざ知らずスポーツは産業となっている。選手には実質プロ選手もいる。観客だけでなく選手にとってもあの環境はモチベーションが上がらないだろう。
アスリートも人間である。Jリーグが始まった時、観客が大幅に増えた、選手たちはこれまで以上の力を出し、面白いゲームが増えた。僕は小学生の時、日本リーグ(Jリーグの前身)の前座試合に出たことがある。また日本リーグの時にも試合を見に行っている。Jリーグという器になることで、明らかに数段階試合の質が上がった。
 
現在のプロスポーツの柱は、観客収入とスポンサー収入とテレビ放映権の三つである。ハンドの場合はこのうち、二つ(プラス半、スポンサーはあるが親会社だけである)が欠けている。この欠落は一つのクラブがどうこうできる問題ではない。リーグの根底を変える必要がある。
拙著『W杯ビジネス三十年戦争』を読んでもらえば分かるが、日本でサッカーが産業となったのはそう古いことではない。ハンドでもやりようはあるはずだ。
僕の持論はシンプルだ。
サッカーの「十分の一」の規模でハンドボールを産業として成り立たせる。
おおよそJリーグの運営資金は二十億円から三十億円、その十分の一の二億から三億円の収入でトントンとなるようにする。
観客収入を十分の一。スポンサー、テレビ放映権も同じく十分の一。単純計算で日本人選手最高年棒はJリーグ一億五千万円程度、ハンドは1500万円。それ以上が欲しければ、国外のクラブに移籍すればいい。

僕は、ハンドボール協会内に設置された、代表強化を目的とした『蒲生プロジェクト』の一員として、ハンドボール界を変える提案をしてきた。田場選手や中川選手たちを側面的に支援するつもりだったが、完全に頓挫している。その理由ははっきりしている。そのことはいずれ書くことになるだろう。
ハンド界の根幹を変えなければ、クラブチームは成り立たない。そう思っている僕にとって、田場の行動は“無謀”に映る。もちろん、その無謀な挑戦が、ハンドボール界に風穴を開ける可能性はあるかもしれないのだが。


今日から再び沖縄に来ている。夏もそろそろ終わりである。


 

(c)copyright KENTA TAZAKI All rights reserved.