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  田崎健太Kenta Tazaki......tazaki@liberdade.com
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。
  2008.........2007..>>12.> 11.> 10.> 9.> 8.> 7.> 6.> 5.> 4.> 3.> 2.> 1..........2006

 

 

2007年3月19日


今日発売の『週刊ポスト』(小学館)で前日本代表監督のジーコのインタビュー記事を書いている。
ここでも何度も書いたが、ジーコと僕の付き合いは十数年になる。ただ、日本代表監督時代は少し距離があった。

フットサル日本代表監督のサッポと話をした時、ジーコとの付き合いに話が及んだ。
サッポはジーコの推薦でフットサル代表監督となったが、プライベートでも親しい。二人は良く一緒にフットサルをする仲である。そうした友人はジーコにとってそれほど多くない。
「世界中で名前を知られるジーコには様々な人が利用しようと集まってくるんだ。ジーコはそうした人を沢山見ている。僕はジーコとは友人ではあるけれど、なれなれしくしないようにしている。なれ合いで何かを頼んだりすることもしない。だからジーコとの付き合いは長く続いているんだと思う」
ジーコは慎重な男である。選手時代から、メディアに対してもバランスをとっていた。一つのメディアと親しくすると、他のメディアから叩かれる可能性があるということを理解していたのだ。
日本でも彼はそうしたことに、気を遣っているのが分かった。だから、僕も他のメディアがいる前では、ポルトガル語で話しかけるのは最小限にしていた。
今回、トルコという言葉が通じず、文化も違う“異国”に、第二の母国である日本から訪ねてきてくれたということ、通訳として顔見知りのエジソンも同行したこともあったろう。試合に負けた翌日であり、クラブの会長とシリアスな会議があった日であったが、機嫌は良かった。インタビューは二時間を超え、終わった後も、ワインを飲みながら話し込むことになった。
久しぶりに、ジーコの本音が出ているインタビューだと思う。四ページでは書き足りなかった。



 

 

 

2007年3月18日


昨日、今日と駒沢体育館で行われていた、ハンドボールのプレーオフに出かけた。
昨日の準決勝は二試合、大同特殊鋼対トヨタ車体、湧永製薬対大崎電気。大同とトヨタの試合は、序盤から点差が開いてしまった。明らかにトヨタ車体は、試合の入り方を間違えた。野村たちの力のこもったシュートはあったが、大同が余裕をもったまま勝利を収めた。
面白かったのは、第二試合の湧永と大崎の試合である。選手全員の力としては、大崎が上回っていたかもしれない。しかし、湧永はチームとして対抗した。前後半が終わって同点。延長に入り、湧永が勝利した。

今日の決勝でも、湧永はいいハンドボールをしていた。大同のペクは前半ほとんど仕事することができなかった(後半の勝負所で得点を決めたのは、ペクを褒めるべきだろう)。結果は大同に優勝。順当な結果ではあった。

この二日間、どのチームを応援したにしても、駒沢体育館に足を運んだ人は満足したのではないだろうか。
中身の濃いプレーオフとなった立役者の一人は、湧永の山口修だった。 彼は三十五才、年齢のためか、代表からは遠ざかっているが、やはり日本で最も優れたポストプレーヤーだった。
身長百九十一センチと体格に恵まれた上に、戦術眼に優れている。守備をコントロールする山口とペクの駆け引きは、チェスのようで、世界水準であった。
そして何より、コンタクトスポーツであるハンドボールに必要な闘志、執念を山口は持っている。
それが顕著に現れたのが準決勝の大崎との試合だった。あの試合はどちらが勝ってもおかしくなかった。敢えて勝因を求めるとすれば、山口の執念が上回ったと言うべきだろう。
準決勝が終わった後、山口に「いい試合だったよ」と声を掛けると、「これだけ観客が入って、見に来てくれる人が多いと燃えますよ」と笑った。
普段の日本リーグが行われている辺鄙な場所にある体育館と違い、駒沢体育館は都内にあり、交通の便がいい。プレーオフということでテレビなど、メディアの数も増えている。試合前には、多少の演出もあった。
その舞台を意気に感じ、最も力を発揮したのが、社員選手であり、キャリアの終盤にさしかかっている山口であることが、少し残念ではある。


決勝戦の後、優勝した大同の選手たちを見る湧永の選手たち。19番が山口。


 

 

 

2007年3月13日


旅とは、本のようなものだと思う。無闇やたらに乱読しても、内容は頭に止まらず、流れ去ってしまう。身体が欲している時に、必要な本と出会うと、身体全体に染みわるように理解できる。
当時務めていた出版社を一年間休職して、南米に出かけたのは、1997年の六月のことだった。
僕は、週刊誌で働くことに疲れ、世界を見てみたいと思っていた。
一年間、旅の中で、喜び、怒り、泣いた。バスの中に乗って、流れる風景をぼんやりと眺めながら、これからの自分の生き方について何度も考えた。
あの旅は、僕の人生にとって必要なものだったとつくづく思う。あの一年間は、他とは違う濃密なものだった。

今日、僕は39才になった。
あれから十年が経とうとしている。


サンパウロからバスで五十時間揺られて、ポルトベーリョという街に到着。ポルトベーリョからマナウスに船で旅した時の写真だ。僕もこのハンモックの一つで揺られながら、一週間ほど船に乗っていた。
この後、マナウスからアマゾン河口のベレンまで船で行くことになった。

これはポジフィルムで撮った写真だ。デジタルとは色の濃さと深さが違う。ペルーのじゃがいもと日本のじゃがいもの味の違いのようだ。また銀塩で撮ろうかなと、思った。


 

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