北京の市内に着いたのは、夜の九時半になっていた。
急いで荷物を置き、地壇公園にあるライブハウスに向かった。そこには知人であるファンキー末吉さんがドラムを叩いていたのだ。
元爆風スランプのリーダー、ドラマー、そしてコンポーザーでもあるファンキーさんとの付き合いは八年ほど前に遡る。
かつて−−中国ではロックは反政府の象徴だった。
ファンキーさんは天安門事件後の90年に初めて北京を訪れている。偶然、中国にロックバンドを見る機会があった。
当時、ロックは政府当局から禁じられており、アンダーグラウンドで演奏されていた。中国のロックバンドは、荒削りで技術はなかったが、強い魅力があったという。それはロックという音楽の本質であったかもしれない。
当時、ファンキーさんは爆風スランプで“売れる”ことを過度に求められ、厭気がさしていた。自分が音楽を始めた時のひたむきさ、純粋さを中国のミュージシャンから感じたファンキーさんは、その後何度も北京に足を運び、中国語を覚え、中国でもっとも有名な日本人ミュージシャンとなった。
この辺りの経緯は、ファンキーさんの著書『大陸ロック漂流記』に詳しい。
中国の変化は日本よりもずっと早い。
90年代が進み、中国は開放路線を推し進めた。その中で、中国のロックは産業化し反政府的な匂いを消し去っていった。
中国政府の方針と中国ロックが交差したのが、99年だった。
上海とは違い、北京では政府当局は頑なに大規模なロックのライブを認めなかった。その当局がこの年、当時ファンキーさんの友人であった『黒豹』というバンドにライブの許可を出したのだ。
その“歴史的”なイベントを見るために、ファンキーさんと僕は北京に出かけた。
僕にとって正直印象の残るライブではなかった。大音量は客の興奮に繋がると、リハーサルから音量を下げさせられた。そして、観客は手を叩いて喜ぶことも、規制された。なにより、黒豹の演奏から、ロックの匂いを感じなかった。その日のことを、僕たちは「中国ロックが死んだ日」呼んでいる。このライブのことを僕が小学館の社員時代、『週刊ポスト』でグラビア記事にした(本当に好きな記事を作っていたものだと、つくづく思う)。
その後、ファンキーさんは活躍の舞台を完全に北京に移した。僕は年に最低数ヶ月は日本を空ける生活を続けている。僕たちは、数年前に大阪の路上で偶然会って以来、顔を合わせる機会がなかった。
今回、取材で北京を訪れることになり、すぐにファンキーさんに連絡を入れることにしたのだ。
ファンキーさんが、翌日からモンゴルで行われるロックイベントに参加するというので、到着してすぐにライブハウスに向かった。
僕にとっては99年以来の北京。あの時と全く姿を変えてしまった、眩い街を眺めながら、酒を酌み交わした。拝金主義をひた走る中国社会で生活しながらも、ファンキーさんは昔と全く変わっていなかった
|