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  田崎健太Kenta Tazaki......tazaki@liberdade.com
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。
  2008.........2007..>>12.> 11.> 10.> 9.> 8.> 7.> 6.> 5.> 4.> 3.> 2.> 1..........2006

 

 

2007年8月27日


いつもテレビは、ハードディスクレコーダーに録画して、ソファーに寝転がりながら、時間のある時に早送りしながら見ている。ただ、時に姿勢を正して見なければならない番組もある。
前回ここで書いた、RBC琉球放送でオンエアーされた「田場流」のDVDが沖縄から宅急便で届けられていた。ようやく昨晩、DVDを集中して見る時間がとることができた。
この番組を制作したカメラマンの上原覚史(マスラ)は興南高校ハンドボール部で田場裕也の、国際武道大学ハンドボール部で東俊介の後輩という、“濃い”経歴を持っている。
マスラは地元の沖縄をはじめ国内、さらには自費でフランスまで行っている。膨大な時間カメラを回し続けていたので、編集の時にどの場所を切り取るのか、ずいぶんと悩んだことだろう。
四月に田場のFC琉球ハンドボールの初めての大会を取材するために、東俊介と一緒に沖縄を訪れたことがあった。そのふがいない戦いぶりに、東も僕も落胆した。東は練習に参加して、自ら選手たちにディフェンスを教えた。今回の番組を見て、彼らがあの試合からずいぶん変わったことが分かった。
村山や積、岡田、内田(ウッチー)など、選手たちが成長し、田場の志を理解する仲間となっているようで嬉しかった。

僕が「田場流」を見ながら今年、早稲田大学で自分が教えたことを思い返していた。
今年あたまに、元サッカー協会で現在早稲田大学の教授である平田さんから、スポーツジャーナリズム講座の立ち上げに誘われた。
まず、まだ発展途上である自分が、教えることができるのかと躊躇した。自分はそもそも上から物を教えるタイプではない。悩み、考えながら走っているその姿を伝えることで、学生たちが感じることがあるだろうと引き受けることにした。
今年四月に講義を一度、さらに二度、学生のレポートを講評した。「此処ではない何処かへ」での広山選手、あるいは「W杯ビジネス30年戦争」での電通の高橋さん、ジーコなどの取材の過程を話した。
人に教えるということは、自分のことを改めて見直すということでもある。講義、そして生徒たちの反応は僕にとって非常に勉強になった。
生徒の質問の中に、被取材者との距離を具体的にどう取っているのかというものがあった。
僕はこんな風に答えた。
被取材者に信頼されないと、きちんと取材をすることができない。ただ、だからと言って被取材者にとって、甘く都合のいい記事しか書かない取材者は意味がない。
距離の取り方は、そのスポーツの置かれている状況、選手の特性によって違う。毎回、取材をする時に緊張しながら、その距離を計っている。時に近づくこともあり、遠ざかることもある、と。

田場は基本的にフェアな男だ。メディアに媚びを売り懐柔することも、逃げることもしない。そうした田場の特性もあるが、マスラしか写せない映像を撮りながら、彼もまた適度な距離で、田場裕也という人間を描いていた。
ここ数年、マスラはどのように田場を描くのか悩み考え、試行錯誤をしただろう。「田場流」からは、マスラが一人の映像表現者として成長する過程が、僕には見えた。
細かいところで注文はあるが、基本的に「田場流」は、涙がこぼれ、元気が湧いてくる作品だった。こんな清々しく、良質な作品が、沖縄しか見られないのはもったいない、と僕は見終わって、残念に思った。


「田場流」にはニーム時代の映像が出てきて懐かしく思った。この写真もニームの駅前で撮影したもの。

すでにカザフスタンで、日本女子ハンドボール代表が、アジア予選を戦っている。僕は女子代表チームを追ったことがないので詳しくは分からないが、いつものように通信社、新聞社、誰も人を出していないようだ。通信社はハンドボール協会が発表した試合結果をそのまま流したが、スコアが間違えていた。
IT技術全盛の今、女子代表に帯同しているコーチによる電話連絡が、国を代表して戦っているチームの戦いぶりを伝える唯一の術となっていることに寂しさを感じる。
女子代表では、多くの選手が欧州のクラブチームでプレーしている。ハンドボールもまた女子の方が、潔く勢いがあるような気がする。完全にアウェーの中、けなげに戦い続けている彼女たちが、いい結果を持ち帰ることを祈っている。


 

 

 

2007年8月15日


来月二日から六日まで、愛知県豊田市で、ハンドボールの北京五輪予選が行われる。数年前から、僕の九月前半のスケジュールは空けてあった。以前は九月を楽しみにしていた。ただ今、その気持ちが変化している−−。

僕がハンドボールに興味を持ったのは、ここで何度も書いたが、田場裕也という選手を知ってからである。
今から約四年前の03年11月、僕は、広山望選手のことを書いた単行本『此処ではない何処かへ』が発売になった後、再び彼のいるモンペリエに向かった。
広山選手から近くのニームという街に日本人のハンドボール選手がいることを聞いた。僕は、欧州にハンドボールのプロリーグが存在すること、そこに日本人のハンドボール選手がいたことを知らなかった。
ニームに着いてみると、ハンドボール専用の体育館があることに驚いた。フランスの地方都市は街ごとに、人気スポーツが異なっている。例えば、広山選手のプレーしていたモンペリエは、当時一部リーグだったサッカーとラグビーの人気が高かった。ニームにもサッカークラブはあるが、三部リーグのため、一部リーグに所属しているハンドボールの人気がサッカーを凌いでいた。
数千人収容の専用体育館は満員だった。その中で田場裕也は中心選手として、フランス人から信頼を受けていた。僕は、彼のような日本人がいたことを知らなかった不勉強を恥じた。
試合後、ワインを飲みながらハンドボールの話を聞いた。
ハンドボールの日本代表はソウル五輪以来、オリンピックの出場権を得られていない。マイナー競技にとってオリンピックの占めている位置は大きい。しかし、アテネ五輪の予選で日本は出場権を逃していた。次の五輪、北京は絶対に行かなければならない。自分は日本代表を引っ張る力になりたいと田場は語った。その夜、僕たちは田場家にあったワインをすべて飲み尽くした。
そして、僕は彼の熱に感化されて、ハンドボールの記事を書くようになった。
ところが−−。
昨年夏、田場は故郷の沖縄に戻って、自らFC琉球ハンドボールというチームを立ち上げた。特定の企業に頼らず、プロフェッショナルな選手を集める、欧州と同様のクラブチームを目標にしていた。
僕は田場からクラブ設立について聞かされた時、猛烈に反対した。
クラブ設立のためには、欧州でプレーする機会を捨てなければならない。欧州どころか、零からクラブを立ち上げることは、県リーグから始めることになり、何年かは日本のトップの水準でさえも田場はプレーできない。
世界を知る彼は日本代表の中で貴重な存在である。欧州の厳しい環境でプレーしながら、その経験を日本代表の選手に伝え、五輪の出場を決めてから、クラブを立ち上げても遅くない。少なくとも九月の五輪予選までは、選手としてプレーすることを優先すべきだと、僕は話したが、田場は「今、やるべきだと思うんです」と譲らなかった。
昨年から今年に掛けて、沖縄に何度か足を運び、僕は少し考えを改めた。

ここ数年、大崎電気を中心とした日本リーグ、チュニジアの世界選手権、タイでの世界選手権予選に僕は足を運んでいる。
どうしてソウル五輪以来、日本代表はオリンピックに出場できなかったのだろうか、と僕は考え続けてきた。問題は、買収された審判による、不可解な笛だけでない。
継続的な成果には必ず原因がある。それまで克服できなかった壁を乗り越える時には、それなりの理由がある。
サッカーの日本代表が97年に悲願のW杯出場を決めたのは、Jリーグというプロリーグが発足したこと、それに伴って各クラブチームの下部組織が充実した。トレセンなどの中央の育成システムも機能するようになった。なにより、産業として成功したことで、ピッチ内外でサッカー界に優秀な人材が集まるようになった。だからこそ、アジア全体のレベルが上がる中で、継続してW杯出場権を獲得できている。
それに対して、日本のハンドボール界は局地的に改善している点はあるにしても、全体の流れとしていい方向に向かっているようには思えない。
間違いなく、ハンドボール日本リーグのレベルは、低下している。
韓国人のペクを除けば、かつてホンダにいたフランス人選手のようなワールドクラスの外国人選手は日本リーグにいない。  今年終了した日本リーグでは、大同の富田恭介がベストディフェンダーに選ばれた。富田は才能のある選手で、リーグで最も優れた選手の一人であることは間違いない。ただ、大学を卒業したばかりの選手がそうした賞を獲得できてしまうというのはリーグのレベルが低いことの証左といえる(富田は、今後の目標設定に困ってしまうだろう)。
今の日本リーグは企業の好意に甘えて存在している。他の競技と比べ、メディアへの露出も少なく、リーグの運営は完全な赤字体質のハンドボール競技に見切りをつければ、チームはあっけなく消滅してしまう。すべて企業頼みで、地域との緊密な連携がないため、横浜フリューゲルスが消滅した時のような抗議行動はまず起こらないだろう(もちろんこれは今、ハンドボールに関わっている人間たちだけの責任ではなく、過去の怠惰のツケであるのだが)。
田場がハンドボールの盛んな沖縄にクラブチームを作ったのは、そうした状況を変えようとしたからだ。
資金、選手集めに奔走する田場の姿を目の当たりにして、この無防備で一途な情熱だけが、静かに、そして確実に自然死へと向かっているハンドボール界に風穴を開けることができるかもしれないとも思うようになった。

現在、五輪予選の準備のため、日本代表は国外遠征に出ている。当然のことながら、田場はメンバーに選出されなかった。
田場(あるいは、東俊介選手)がいなくとも、僕は日本代表に対する思い入れがある。北京五輪へ出て欲しいと切に思っている。ただ、冷静にそれが難しいと感じている自分がいるのも事実である。
僕が今の日本のハンドボール界に対して感じている苛立ちと不安を、選手たちは肌で、より切実に感じていることだろう。日本代表に選ばれた選手たちが、ハンドボールという競技の存続を掛けて戦ってくれることが唯一の望みである。
今の日本代表選手たちからは、狂気に近い情熱を持つ田場と比べると、控えめで冷ややかな印象を受ける。それでも彼らは、田場がクラブチームを立ち上げるに至った危機感を奥底で共有していると僕は思っている。
継続的な成果と違って、突発的な奇跡は、スポーツではありうる。
日本代表選手たちの思いが瞬間的な力となり、豊田市で僕の悪い予感を吹き飛ばしてくれることを祈っている。


今年四月のFC琉球ハンドボールの初戦の後、取材を受ける田場裕也。
左に写っている腕は、カメラマンで田場の興南高校の後輩でもあるマスラ。マスラは田場のことを追い続けており、先日、そのドキュメンタリーが『田場流』と して沖縄でオンエアーされたらしい。田場の最大の理解者の一人である、マスラ がどのように田場を描いたのか、非常に興味がある。


 

 

 

2007年8月1日


先週、北京から無事に帰国した。
今回の北京取材は来週発売の『週刊ポスト』(小学館)の巻頭グラビアに掲載される。タイトルは「五輪を一年後に控え た北京の悲しき現実」。合併号の八ページと扱いも大きい。是非書店で手にとって欲しい。
また、今週から『日刊ゲンダイ』で、「ジーコのオシム批判」という連載を始めている。ジーコの言葉から、今のオシム監督の日本代表を読み解くというものだ。こちらも是非、機会があれば読んで欲しい。


北京オリンピックのメイン会場となる国家体育場、通称“鳥の巣”の工事現場にて。


 

 

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