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  田崎健太Kenta Tazaki......tazaki@liberdade.com
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部など を経て、1999年末に退社。サッカー、ハンドボール、野球などスポーツを中心にノンフィクションを 手がける。 著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス3 0年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)。最新刊は 、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)。4月末に『辺境遊記』(絵・下 田昌克 英治出版)を上梓。 早稲田大学非常勤講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 客員研究員。日本体育協会発行『SPORTS JUST』編集委員。愛車は、カワサキZ1。
  2008.........2007..>>12.> 11.> 10.> 9.> 8.> 7.> 6.> 5.> 4.> 3.> 2.> 1..........2006

 

 

2007年5月28日


サンパウロのセントロは、電機部品を扱う店、洋服の卸などが固まっている商業地帯となっている 。その中にオートバイショップが集まっている一角がある。
以前、近くを通った時に、一軒の店が気になっていた。店の前に、ぴかぴかにレストアされたホンダCB750K0(恐らく。K1かK2かもしれないが)が何台も並べてあった。他にも、カワサキや スズキの古いオートバイが見えた。
今日、散歩の途中に店の中に入ると、店長らしき男がいた。僕が、「カワサキZ1に乗っているんだ」と話すと、嬉しそうな顔をして、僕の肩を叩かんばかりだった。
「日本のオートバイは最高だよ。今のオートバイのコンセプトを作ったのが、日本のオートバイ、特 にホンダだ。それまであった欧州のメーカーの作っていたオートバイは、高くて、大して性能は良く なかった。いわば一部の特権階級のためのものだった。その中で、日本のメーカーが、安くて良質の オートバイを作った。今じゃ、ピザの配達もオートバイだ。その基本を作ったのが日本のオートバイなんだ。特に古いのがいい。ハーレーなんか糞くらえだ。あれはブランドイメージだけさ。俺の知り 合いの日系人がハーレーに乗っていた。俺は言ったんだ。“お前、祖国の日本にこんなに素晴らしい オートバイがあるのに、どうしてそんなものに乗るんだ”ってね」
店の中には新しいハーレーもあった。また、郊外の敷地には、何百台もの古いドゥカティやノート ン、トライアンフなどがレストアを待っているという。それでも、日本のオートバイ、特にホンダの CBと古いカワサキが大好きなのだと言った。
僕と同じ趣味だ。
残念ながら、店の在庫にZ1はなく、Z1000LTDをZ1風にいじったものしかなかった。他 には、スズキのGT380(ジーティーサンパチ!三気筒!!)、CB500、GL1000(ゴールド ウィングではない)、CB750F、XS650などが置かれていた。
ブラジルは、規制が始まる七十年代終わりまでは、多くの大排気量のオートバイが輸入されていた 。日本の古いオートバイは合衆国からの逆輸入が多いが、ブラジルにもそうしたオートバイは存在するという。
「年々、集めるのには苦労するようになっているけれどね」
店主は、レストア中のマシンがあるから見せてやると、二階を指さした。
そこでは、ヤマハの古いレーサーが組み立てられようとしていた。
「これは、ネルソン・ピケから頼まれたマシンなんだ」
「ネルソン・ピケ? あの元F1レーサーの?」
「そうだよ。彼は元々オートバイレースをやっていたんだ。彼も古い日本のオートバイが大好きでね 。もう五、六台は売ったかな。ブラジリアに住んでいて、サンパウロに来るときは良くここに顔を出すよ」
ピケは、この形を気に入り、公道で走れるようにしたいのだという。
「ピケはコレクターではあるけれど、飾っておくコレクターじゃない。きちんと乗る、コレクターなんだ」
ネルソン、あなたは大切なことが良く分かった男だ。


エンジニアがエンジンを掛けてくれた。アクセルを開けると、パパーンという2ストローク独特の軽 く強烈な音と白煙、カストロールの匂いが広がった。
ブラジル人ドライバーといえば、日本ではアイルトン・セナが圧倒的に有名だが、ネルソン・ピケも世界チャンピオンになっており、リオのサーキットは彼の名前がつけられている。ブラジルの英雄の一人だ。
店の男から、ネルソン・ピケが店内でCBに跨った写真をもらった。見たい人は直接僕に言ってくだ さい。


 

 

 

2007年5月26日


さて、クイズ。

Q.2007年5月24日、バルセロナ、ミュンヘン、サンパウロ、この三都市を気温の高い順に並べてく ださい。

A.ミュンヘン>バルセロナ>サンパウロ

一昨日、バルセロナからミュンヘンを経由してサンパウロに到着した。それまで晴天に恵まれていたバルセロナは出発の早朝、軽く雨が降っており、少々肌寒かった。ミュンヘンに着くと、夏の空気を 感じた。
そして…サンパウロはかなり寒い。
南半球は冬に向かいつつある。サンパウロは標高七百メートルの場所にあり、かなり冷え込むことを 忘れていた。到着した日は、特に寒く、道を歩く人たちは厚手のコートを着込んでいた。街角の温度 計は九度を示していた。
南欧で日焼けした肌にはつらい天気だった。
迎えに来てくれた友人は「今晩は五度まで下がるらしい」とうんざりとした顔をした。
全く……。僕は寒いところが苦手なのに。
残念ながら、この寒い街にしばらく滞在することになる。


土曜日、友人とサンパウロの楽器街に出かけた。新品、中古品を並べた楽器店が軒を連ねている。一 つの楽器店の前でライブが行われていた。太めで身体の大きなジミ・ヘンドリクスといった風情の黒 人を中心に、三人でブルースを演奏していた。近くのライブハウスに出ている合衆国のバンドだった。
僕もギターが弾きたくなった。 この店では週末にはこうしたライブをしており、ストーンズのビル・ワイマンが飛び入りで参加した こともあったという。この時は人が路上を占拠して、交通が遮断されたらしい。


 

 

 

2007年5月20日


今朝、モンペリエ・スポーツクラブのメンバーに別れの挨拶をした。昨晩は僕たちが優勝したこと もあって、みんなかなり飲んでいた。
僕にとっては、三月の出版カップのフットサルに続く、今年二つめのタイトルになる。残りは秋の出版カップ。連覇すれば、三冠目になる。

さて。
別れの日となる今日、マニュエルを探したが、見あたらない。チェックアウトの時間の十時を一時 間過ぎて、マニュエルがロビーに姿を見せた。
「少し前までディスコで飲んでいた」
僕の身体を抱きしめると、彼のシャツは汗で湿っていた。
これがフランス人だと、苦笑いするしかなかった。
「お前、どこにいたんだよ」
マニュエルは完全に酔っぱらっていた。
「先に帰ったんだ」
試合が終わって時間が経つと、怪我の場所が腫れているようで、ゆっくり歩いているだけでも足が痛んだ。そのため、マニュエルたちを振り切って、先に引き上げたのだ。
「また、来年」
「今年はモンペリエに一度ぐらいは顔を出すよ。その時に一緒にやろう」
マニュエルたちと別れて、僕はバルセロナに向かった。

バルセロナに向かう車中で僕はうきうきとした気分になっていた。一昨年、バルセロナの空港から逆方向へ同じ路線に乗ったことがある。あの時は日が暮れており、全く風景が見えなかったので、こ んなな風景が広がっていることを知らなかった。
僕は、普段から羨ましいという言葉はなるべく使わないようにしている。この海岸沿いの風景を見る と、その禁を解きたくなってくる。
太陽、そして素敵な海岸が都市のすぐ近くにあるのだ。
この辺りに住む人は幸せだと思い、羨ましく 思う。



 

 

 

2007年5月19日


今朝、起きた時から、足の痛みがひどかった。
日本を出る前から右腿の裏側の筋を痛めていた。今回はサポーターで固定してプレーをしていたのだが、痛みは上の方に広がってきていた。右足を無意識にかばっていたせいか、左足の膝の上にも痛みが出ていた。
ベシエスとの準決勝は朝の十一時から始まった。前半で三点をリードし、後半途中から、左サイドハーフに入った。相手の右サイドの選手が攻撃の起点になっていたので、彼の攻撃を封じながらバランスをとることを心がけた。シュートチャンスが一度あったが、右足を振り抜くことができないので、パスしてしまったのが悔いに残っている。試合は、四対一で終わった。
試合終了間際、クロスボールを挙げさせないように、足を思い切り出した時に右足に痛みが走った。昼食の間、ストレッチをしたが、歩くだけでも痛い。ダッシュは厳しく、右足はトゥキックしかできない。
決勝は午後五時のキックオフ。試合は昨日敗れたセテ。1対零という僅差のまま、試合が進んだ。後半にこちらが、二人も退場者が出てしまって、全く試合のコントロールができない荒れた試合になってしまった。
終了間際に入るはずだったが、人数的に少なくなってしまったために、結局試合には出なかった。出ていれば、怪我をしていたかもしれない。残念ではあったが、結果的に良かったかもしれない。
退場者の一人はジェロームだった。味方がファールを取られ、彼は激怒し暴言を吐いた。トップのプロの選手がそこまで熱くなっていた。だからサッカーは面白いのだ。日本では、上手い選手はだいたい大人しい。ブラジルでもフランスでも上手い選手ほど勝負にこだわる。

試合後のパーティで、いくつかの発見があった。
まずはレッドカードで退場したジェローム。
彼にはフランス代表歴があった(上手いはずだ!)。2001年のコンフェデレーションカップで日本に行く予定もあったのだという。
「突然、落とされた。こういう時は選手はどうしょうもないんだ」
和食の好きなジェロームは日本に行きたかったと、残念そうだった。

初日の試合で暴言を吐いて退場したクリスティはチャウセスク政権下のルーマニアを嫌って、ニームにある外人部隊に八年間所属していた。
「アフリカやら、世界中の紛争地帯に行ったよ」
彼は、狙撃兵だったのだと自慢げに言った。外人部隊には日本人の友人もいたという。
そり込み風にはげ上がった頭、がに股で歩く姿(失礼!)には、普通の元サッカー選手とは違った雰囲気があると思ったが、外人部隊にいたと聞いて頷けた。

また、一緒のチームにプレーしている若い選手がいた。なかなかスピードがあり、技術がしっかりしていた。話を聞いてみると、かつてセテでプレーしていた選手だった。セテはフランスリーグの二部か三部のはずだった。
彼は、祖母がスペイン人で、フランコの時代にフランスに逃げてきたため、スペイン語を話すことができた。
「セテには知り合いがいたんだ。バレーボールの選手なんだけれど」
僕が言うと、彼は驚いた顔をした。
「誰だい? セテは、サッカーとバレーボールとウォーターポロがあるんだ。どのチームも仲が良くて一緒に飲んだりするんだよ」
「加藤陽一という日本人がいただろう?」
「いた。いた。そうだ、彼は日本人だったな。加藤はセテのどう言っていた? 結構大変だったようだけれど。彼はフランス語は話せなかったんじゃないかな?」
「イタリア語は話せるとは思うけれど、フランス語は分からない」
「そうだ、彼はイタリアでプレーしていたんだよね」
「そう」
やはり、色々なところで、繋がるものである。


準決勝の後、昼食をみんなで取った。食後、ベシエスの選手たちが、恒例の“闘牛ショー”を始めた。一人が牛(写真中央)になりきって、暴れて壁にぶつかったりする。マタドール役(赤い布を持った男)、マタドールを補佐して馬に乗る人間の役もある。あまりにエキサイトして、上に乗っていた男が、転げ落ちた瞬間。

闘牛で“牛”となった男。
「おーい、この子たちと一緒に写真を撮ってくれ」と僕に声を掛けた。
子供たち、嫌そうな顔をしている……。


 

 

 

2007年5月18日


今日は散々だった。二試合勝っているので、明日の準決勝に進めることになっていた。恐らく多くのメンバーが飲み過ぎていた。そして先発からジェロームやクリスティを外した。
試合開始からチームの歯車はおかしかった。クラブの会長であり、年長のシャールが前半途中で怒り、自分を含めて選手を入れ替えるように監督をしているブシェに指示した。
先制点を取られ、ジェロームがミドルシュートを決めて追いついたが、試合の旗色が悪かった。
後半途中から、僕は入るはずだったが、機会がない。
僕は、普段からこのチームでプレーしているわけではない。また、元プロ選手のように技術もない。ただ、自分は中に入ってやれる自信はあった。明らかに運動量が少なく、コンビネーションが悪かった。動き回ればチャンスは生まれるはずだった。 フランス人だけではないが、こうした不利な状況の時は、外国人をなかなか使わないことも分かっていた。
結局、僕がフォワードとしてピッチに入ったのは、終了十分前を過ぎていた。
ところが−−。
終了三分ほど前、僕が中盤まで下がって、パスを受けると、後ろから激しく当たられ、ボールは前に転がった。
「ファールだろ」
味方の選手たちが怒鳴ったが、審判は笛を吹かなかった。
そのボールを相手チームが拾い、繋がれた。守備の人数が足りていたのだが、隙間をつかれて失点。試合は、一対二で終了した。

ファール気味でボールを奪われたので、自分の責任ではないだろうが、僕が入ってからの失点で、いい気分はしない。また、ゴール前、フリーでボールを待っていたのだが、ボールは来なかった。
試合の後、食事の席で、シャールが僕の隣にいたマニュエルに何か話しかけた。僕のことを話しているようだった。
シャールが話をすると僕は少し緊張する。
彼は、癌の専門医であり、かつて三部リーグでもプレーしていたらしい。年は五十八才であるが、クレバーなプレーをする。
なかば白髪の白人で、愛車はジャガー。いかにも知識人と言った風貌で、チーム内からも一目おかれていた。フランス語しか話さないので、僕とは距離があった(一度、ペレのプレーがいかに哲学的かということを熱心に話されたことがある)。 マニュエルが僕のほうを向いた。
「シャールが、お前の最初のポストプレーが良かったって褒めていたよ。ジェロームにダイレクトでパスをしただろ」
入ってすぐに、中盤から強いボールが僕のところに飛んできた。僕の後ろには大きなディフェンダーがおり、キープするのは難しいと思ったので、そのまま右サイドを走ろうとしていたジェロームの前にボールを落としたのだ。ただ、ボールが少し強くて、ジェロームはこぼしてしまった。サイドが空いていたので、繋がれば得点に近づいたはずだった。
あのちょっとしたプレーを、シャールが評価してくれたことが嬉しかった。
このチームでやっていて楽しいのは、みんなサッカーを良く知っていることだ。日本でも僕の知り合いはさすがに良く知っているが、そうでない人も多い。
サッカーというスポーツは、技術がある、あるいは足が速いというのは決定的な要素にならない(そうしたことを重視する人間もいるが)。一番大切なのは、ボールが来た時の状況判断であると思っている(日本では、あまりに判断が悪い人間がいて、苛立つことがある)。
さて、明日は準決勝。相手は、昨年優勝のベシエス。厳しい試合になりそうだ。


クリスティ(手前)とその息子、そしてジェローム・ボニセル(奥)。
ジェロームは左利きで、キアヌ・リーブスに少し似ている。


 

 

 

2007年5月17日


初日、僕たちのモンペリエ・スポーツクラブは連勝することができた。一試合目は、左サイドバック、二試合目はフォワードとして出場した。
二試合目、ゴール前でフリーでいたのだが、ボールが来なかった。フォワードは人の力を借りなければならないということを実感した。結局レガースはしなかったが、問題はなかった。

毎回、僕たちのチームには様々な元プロ選手が来ているが、今回は現役選手がいた。
彼の名前は、ジェローム・ボニセル。元々モンペリエの下部組織におり、スペインのデポルティボ・ラコルーニャ(デポル)、フラム、オリンピック・マルセイユ、そして今はボルドーにいる(なぜ今回来ることができたのかは不明)。
デポルには僕の知り合いがいる。彼の名前を出すと「どうして知っているの? 子供の時から世話になっているんだ」と驚いた顔をした。いつも思うが、世界は狭い。
夜には、石造りの瀟洒なレストランでバンドを入れて、全チームが集まった食事会があった。そこで、ジェロームとスペイン語で話し込んだ。
「フラムでは、稲本と一緒だったんだって?」
「そう。僕は日本食が大好きでね、稲本にロンドンで美味しい寿司屋を尋ねたら教えてくれた。いい奴だったよ。残念ながらイングランドではあんまり活躍できなかったけれどね」
ジェロームによると、稲本の技術は素晴らしいのだが、フィジカルが弱点で、激しく当たってくるイングランドリーグになじめなかったのだという。
「日本では稲本はフィジカルは強い方なんだけれど」
僕の言葉に、ジェロームは首をすくめた。

もう一人、僕たちのチームに上手い選手がいた。彼はルーマニア人で、クリスティと言った。僕のつたないフランス語と英語で話をすると、僕たちはほぼ同じ年だった。
二十三才で、怪我のため引退したが、それまでは、ルーマニアの名門ステアウア・ブカレストでフォワードとしてプレーしていたという。道理で上手いはずだった。
現役引退後は、医療関係の仕事をしており、フランス人女性と結婚をして、フランスに住んでいた。
「ルーマニアとフランス、どちらが好き?」
「フランスかな。ルーマニアも美しい国だけれど、フランスの方が今では好き。国籍は両方持っている」
「モンペリエに住んでいるの?」
「いや、ニーム」
「ニーム?」
ニームには、少し前まで知り合いが住んでおり、何度も訪れたことがあると僕は言った。
「ハンドボール選手で、ユウヤ・タバと言うんだ」
「ああ、彼か。名前を聞いたことがある」
クリスティは大きな声を出した。
「彼はどうしたんだい。最近、彼のことを聞かないけれど」
田場裕也は現在、沖縄でハンドボールクラブを立ち上げたのだと教えた。
「ところで、あんまり飲み過ぎない方がいいよ。このチームはみんな飲む。付き合うと大変なことになる。僕はこうしているんだ」
クリスティは、もう一つのグラスを指さした。
「水と交互に飲んでいるんだ。でないと、飲み過ぎてしまうから」
「大丈夫。僕も最初に来た時、飲み過ぎて、大変だった。二度目は飲み過ぎないように気をつけていた。今日もそんなには飲んでいないよ」
パーティは日付が変わっても終わりそうになかった。奥さんが眠いというので、先に帰るというジェロームの車に乗せてもらって、先にホテルに戻ることにした。
同じ部屋のフィリップが戻ってきたのは、朝の四時を過ぎていた……。


ブラネスにある古い建物を使ったレストラン。
フィリップ曰く「スペインの方がこうした雰囲気のあるレストランがあるし、安い。何よりスペインの方がサービスに笑顔がある。パリなんて最悪だろ?」 フランス人も自国のサービスの悪さを自覚していることが分かった。


 

 

 

2007年5月16日


成田から飛行機に乗り、今、ドイツのフランクフルトにいる。スペインのバルセロナ行きの飛行機を待っているところだ。 今回の欧州行きは、当初の予定から二転三転することになった。そもそもは取材のついでに、バルセロナに行くつもりだった。
バルセロナの近郊で、僕がフランスのモンペリエで入っているチームの大会が開催されていた。一昨年も参加し、僕たちのモンペリエ・スポーツクラブは優勝することができた。
前にも書いたが、モンペリエ・スポーツクラブについて説明しておこう。
発端は、2003年のことだ。モンペリエでプレーしていた広山望選手(現東京ヴェルディ)のことを書くために、モンペリエの街を訪れた。僕は出張の時には、いつもサッカー用のシューズをスーツケースに入れており、様々な場所でボールを蹴ってきた。この時も、広山選手の友人である、マニュエルから誘われて、試合に出ることになった。
スポーツクラブの選手たちは、ほとんどが僕より年上だったが、プロのトップチームでプレーした選手も多く、非常にレベルが高かった。日本とはプレースタイルが違い、戸惑ったが、それなりのプレーが出来たと思う。試合が終わった後に、ワインを飲みに出かけ、チームに加入するように勧められた。

その後、広山選手がいなくなった後も、モンペリエに立ち寄り何度かボールを蹴り、みんなとワインを飲んだ。チームには、医師、実業家、教師、あるいはエメジャケ(元フランス代表監督)と一緒に仕事をしているフランス女子代表の下部組織の監督などがいて< 面白い話を聞くことができた。僕のフランス語は上手いものではないが、スペイン語を話すメンバーが何人かいるので、彼らにいつも助けて貰っている。
スポーツクラブは、普段はモンペリエ近郊のチームの定期戦で試合をしている。そして、年に一回、この時期にフランス南部ラングドック地方の各都市のチームが集まって大会をバルセロナ近郊で開催している。
フランス人の大会をスペインで開催するのにはいくつか理由がある。スペインの海岸沿いの街は、この時期素晴らしい気候であること。そして、スペインはフランスに比べて物価が安いのだ。
今朝、僕は寝坊をして、飛行機の中で、テーピングとレガースを忘れたことに気がついた。少し憂鬱である。


ホテルのある、Malgret de Mar。海岸の砂粒が大きい。


 

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